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2015年12月29日火曜日

森で経行 Gehmeditation im Wald

 娘が近くに住む妹弟の家に泊まりに行っている間、ここぞとばかりに森に2時間ほど経行に行きました。クリスマスの慌ただしさと比べて、森の中はまるで別世界。1時間も歩くと、ただただ、「今、ここ」に集中することに慣れてきます。しかし、その慣れから離れてしまう速さといったら悲しい哉、まさに光速です… 森の写真と、もうひとつの写真は座禅会常連参加者の女性から頂いた木の星です。丸太から彼女がのこぎりでくり抜いたそうで、感謝感激。

2015年12月25日金曜日

慣れないクリスマス

久々にブログに登場、我が家の黒猫のくろちゃん。昨日はクリスマスツリーの下のプレゼントの中にまぎれて寝ていました。クリスマスはどこの家も「あるべきクリスマス」のために、12月は準備で忙しいです。そのため、クリスマスストレスという言葉も生まれるほど。私はかれこれ20年近くドイツのクリスマスを経験していますが、はじめのうちは、慣れない習慣と「私は異教徒」という葛藤(笑)で、まさにストレスで破裂しそうでした。しかし、何年もやっているとどうやったら楽に過ごせるか賢くというか、神経が図太くなってゆきます。そして、まさに彼らの大きな期待に応えることはここ数年完全にやめました。w 空回りの努力をやめると逆にスムーズになんでも進むものです。これってクリスマスに限ったことではないのですが… 中でもクリスマス料理は最難関。料理は好きですが、いつも和食中心なので、突然どかんと肉料理を、それも大人数分つくるのは大変です。この習慣はうちは24日の夜だけに簡略化!そして、今日25日のうちの夕ご飯はピザに決定でーす:) 子供は大喜び…

2015年12月24日木曜日

男性国会議員と育児

 国会議員は通常の職種ではないから育児休暇をとることに慎重論…? 通常の職種とそうじゃない職種の境界線ってなんだろう。ドイツに住んでいるせいもありますが、某議員の育児休暇に対する反対論が党内からあると聞いてかなり驚きました。一般世論で反対論がけっこうあるのはなんとなく想像できますが、党内で反対論を叫ぶのは自民党のイメージを貶めないのでしょうか。きっと逆で、そのほうがしっかり仕事をしている政党のイメージがつくという裏の考えなのでしょう。  これがもしドイツだったら大して記事にもならないこと。あ、そう。でおしまい。それくらい男性の育児休暇は当然のこと、もちろん職種を超えて。育休をとらない男性に対して、「奥さん一人で大変じゃない?育休とって子育ての苦労をあんたも経験した方がいいよ。」と諭される方がほとんどでしょう。自民党って子育てに冷たい党なんですね。十分想像はしていましたが。

2015年12月18日金曜日

禅の精神で育児 Erziehung mit Zen Geist

 先日、私たちが利用した養子縁組斡旋団体の方から、私たちと似た環境の養子親候補に、子供の言語問題等の経験を話して欲しいと電話がありました。もちろん快諾し、早速未来のお母さんとなる方と電話でお話ししました。その方は、私と全くの同世代で、さらに来年迎える養子の年齢も私たちが経験した6歳間近ということもあり話題はつきませんでした。その方は職業上の専門的な訓練をうけ資格を取得し、その道の専門家としてキャリアをスタートした矢先の養子縁組決定とのこと。どの程度、育児休暇を取るべきか、職場復帰はできるのか、そして子供は2ヶ国語を問題なく取得できるのか、子供の精神状態は、現在の里親との葛藤はあるだろうか、などなど思い浮かぶ疑問はつきません。どのテーマも私たちが実際に経験し、そして未だに経験していることなので、まさに大きな役をかった同志として手に取るように気持ちがわかります。しかし、正確な答えがここで出るかというとそうではありません。子供それぞれが百人百様の発達をします。それは親となる私たち自身にも言えることで、これが正しい答え、あるべき姿、などどこにもありません。まさに禅の精神で、毎瞬間をまっさらに受け止めてゆくしかない。主観を越えた全体を見る目、さらに子供、孫の成長を見てきた老人のような長期的な発達を見る目、これが問題を抱えた時に役立ちます。しかし、これがまた難しい… ここに職場が加わるともっと難しい。職場事情も育児休暇復帰後には自分自身の変化と同じくらい変化しているでしょう… 先のことを考えるのは大事ですが、それによって今なすべきことが中途半端になっては、将来の計画がどんどん離れていきます。それを私は何度も経験しているので、とにかく座禅会でいつもみんなで目標にしているカ「今、ここ」精神で毎日を過ごすようにしています。

2015年12月15日火曜日

クリスマスマーケットからインテグレーションへの第一歩…

 クリスマスマーケットがいたるところで開かれている12月です。今年は暖冬で全くクリスマス気分ではありません。グリューヴァインは外がキンと寒い時においしく感じますが、今年はイマイチです… 私の所属する野球協会は今年は3箇所でマーケットに参加。その度にスタンドの設置のお手伝いです。スタンドといっても、テントや鉄筋の味気ないものではなく、ちゃんと木材でできた小さな小屋です。この小屋は毎年使用されているので、みんな慣れた手つきでドリルとネジを片手に組み立てていきます。この設置のお手伝いに先日顔見知りになった、難民の人たちが何人か来ていました。すごいなー、これこそインテグレーションへの第一歩。  野球ソフトボール計画はゆっくりですが進んでいます。今日は参加希望を表明した女性たちと会ってきました。シリア、アフガニスタン、チェチェンと出身国は色々です。年齢も13歳から44歳と幅広い。言葉はほとんど通じません。おもしろくなりそうです。(笑)  また、スポーツ団体と地域の結びつきが強いドイツならではで、心配の種だった賠償責任保険は、しっかりと難民向けのものが面倒な手続きいらずで保障されていたのには感心しました。ひとつのハードルがクリアです。もうひとつのハードルは、もっと身近で現実的なもの。体育館用の靴です。果たして全員分の靴のお下がりが見つかるか… いざとなったら裸足でやるしかない。  

2015年12月11日金曜日

意地悪な隣人と再会したその時…Mindfulness Meditation bringt endlich was : )

かれこれ1年近く定期的に一緒に座禅を組んでいる女性Aさんのこと。先日クリスマスマーケットで、過去にAさんをねちねちといじめ続けた隣人を遠くから発見したそうです。その瞬間、鼓動が激しくなり息がつまり、嫌な思い出が次々と浮かんできたとのこと。けれど、立ちつくしながらも、以前のようなパニックにはならずにどこか冷静でいられたと、座禅室に入るなり嬉しそうに話し始めました。それじゃあ、それは今日のよいテーマだねということで、その瞬間を客観的に見て行くことにしました。会った瞬間にどんな体の反応があったのか、息を飲んだ、足がすくんだ、手をぎゅっと握った、頭の中が白くなったと思ったら胸が熱くなった、などなど。そして頭の中で起こるフル回転の思考回路の順を追っていきます。さらに、そこから自分がどうしたかったのか、何を恐れていたのか、など、第三者的に見ていきました。最後には彼女は自分自身で子供の頃の追体験をしているのだということに気づき、更に、子供の頃受けた親から自分への過度の期待にも気づき、最後には「彼女のいじめも問題だけど、私が親からの体験を彼女に映し出して怖がっているのが一番の原因だわ。」と、話していました。さらに「すごいわー、1年前の私とは全然違うと思うわない?体の中にゆるぎない芯を感じるわ。とっても嬉しい。」と笑顔で自分を褒めていました。  彼女との1年間の座禅体験は、いわゆる禅仏教の座禅とは違い、どちらかというとマインドフルネスといわれる認知療法に近いものでした。とにかく語って、聴いて、座禅して、お茶をのんでの繰り返しが、こうやって実を結んでゆくのを目にできて私もとても嬉しかったです。

2015年12月9日水曜日

私は彼がカツラでも構わない。w

 世界がどんどん右寄りになってきていますね… フランスでは某政党がニンマリだし、アメリカでは「かつらじゃないよ」宣言をした、なんちゃって金満政治家がとんでもないことを言っているし… このおじさんもう言いたい放題で、多くのまともなアメリカ人も恥っさらしと思っているでしょうね。ある意味すごい人です。お金をもっちゃえば、恥とか感じなくなっちゃうんでしょうか。  最近こちらのテレビではキリスト教とイスラム教のことしか取り上げていない。まるで世界が二つに割れているから、一つに戻そうと両宗教の比較共通点ばかりを取り上げようとする。そうやって究極的には言葉にできない信仰心までを分析しようとするから、余計分裂していく気がしてなりません。  ブッダの独り言。「怨みは怨みによって決して静まらない。怨みの状態は、怨みの無いことによって静まるであろう。」これは永遠の真理です。

2015年12月6日日曜日

難民と野球ソフトボール計画

 私の住む地域の難民ヘルパーの初回ミーティングに出席してきました。難民の人たちももちろん一緒です。リーダーの方が、ドイツにおける生活全般の注意事項を説明してゆきました。それをアラビア語、ペルシャ語に通訳されます。私が住む地域には2000人を超す難民が住み、それに対して担当する社会福祉士のような公務員は7人しかいないこと、かれらは生活の最低限のこと(住居、インフラ等)しか面倒をみれないこと。それ以外のことは無償労働のボランティアに頼らざるを得ないことがまず伝えられました。7人で2000人以上の生活確保は想像するだけで相当大変な仕事です。  続いて、かなりはっきりと、寄付物を大切に扱うこと、集合時間の時間厳守、男女平等、ドイツの生活習慣を尊重し学ぶこと、宗教上の規則より先に法律を遵守すること、ドイツで自立してゆくための現実的な目標を達成するまで努力すること、が伝えられました。そして、それらに対する文句は一言もでませんでした。緊張が少し漂いながらも、終わった後はヘルパーも難民もみなワイワイガヤガヤと話し込んでいました。  このワイワイガヤガヤの中で、私にとっては本題のスポーツ参加の話となりました。「野球ってしってる?」「あー、なんかこういうふうに棒でボール打つやつでしょ」「やってみたい?」「できるの?俺たち」という感じで話は盛り上がり、とりあえず7、8人の参加希望者の表明がありました。英語のできる難民の間だけでの会話だったので、通訳をとおしてもっと参加希望が増えればいいのですが。  さらに、リーダーから女性はできないか?との質問があり、ソフトボールを男女一緒にやらないかと提案したところ、それは無理だろうとのこと。女性たちは男性と一緒にスポーツすることが未知の体験で、嫌がるだろうとのこと。ふむ。嫌がることは無理にはすすめませんが、残念です。何年か後、ドイツの生活に慣れた頃に一緒にできるといいなと思いました…    

2015年12月2日水曜日

娘の故郷思いと英語学習 Die Sehnsucht von meiner Tochter nach Heimat und Englisch Unterricht

 久々に娘のこと。ドイツの学校では3年生から英語の授業が始まります。3年生になって3ヶ月もすぎたころになって気がついたことが、娘が全く英語の授業を理解していなかったということ… 英語に限って宿題もテストもなかった為に、全くもって娘の理解度を把握していませんでした。猛反省。担任の先生からもきっちりと報告を受け、まずいなあ、と頭を抱えました。娘にしてみれば、日本語、ドイツ語に続くさらなる言語取得。よく考えてみれば、そりゃ過酷… ドイツ語も日本語もなんなくクリアしていたので、全くもって危機意識を持っていませんでした。しょうがない、と重い腰をあげて私が英語を指導するも、発音が悪すぎる… 真似する娘が日本語訛りの英語発音になっているのがよくわかります。さらに未だに授業が全くわからないとのこと。これじゃまずい。これは家庭教師か公文かと悩んでいると、仲のよいイギリス人女性が、子育ての合間に子供に英語を教えていると知り即断。とっても温和で優しい彼女を娘もすぐに気に入り、毎週彼女を訪れるようになりました。  実は担任の先生からは、家で日本語をあまり話さないように、と言われましたが疑問だらけでまともに請け負いませんでした。私と娘のコミュニケーションが心からのものでなければお互いにストレスが溜まる一方です。もちろん私は私の母国語を通してでなければ、母娘のよりよい関係は築けないでしょう。これは養子縁組が決まる以前に受けたセミナーや専門家からのアドバイスでもあります。おまけに毎日ドイツ語だけなんて… 英語の先生の彼女もドイツでアジア人の旦那様と結婚し、かなりインターナショナルな言語環境にいます。その彼女も完全に私の考えに同意してくれました。  と、今回のブログのテーマは学校批判ではなく、娘の故郷思いです。娘はハイチにいる実の両親のことを覚えていますし、時々どんな生活をしていたか話します。最近は、大きくなったらハイチに行くことも考えているようです。先日は、大きくなったら貧しい両親にお金をあげるんだと言っていました。その会話から、どうやってハイチのママパパと話すのか。(ハイチの公用語はフランス語とクレオール語です。現地の人はクレオール語を話しています。娘はクレオール語は完全に忘れました。)お金はどうやって稼ぐのか。なんて話になり、フランス語を勉強すること。ちゃんと仕事をみつけること。の二つが彼女の関心ごととなりました。そしてフランス語を学ぶ為には、ドイツではギムナジウムに入学しなければ勉強できないわけで、娘の今の状況では恐らく入学は難しいでしょう。この高いハードルをどう超えるのか?が目下の関心ごととなったようです。よい意味での日々の学習の目標となってくれるように見守っていきたいと思います。

2015年11月26日木曜日

難民ヘルパー2

 先日お伝えしたヘルパーの仕事内容が、「ドイツ語習得のためのヘルプ」から「スポーツオーガナイザー」に変更になりました。やれやれ。w 本格的な開始は来週末以降です。長い体育館やコンテナ暮らしで体を動かしたくても動かせなかったみなさんを、どのような方法でスポーツ参加を可能にするか、知恵の出し合いがおもしろそうです。  今日ラジオでドイツ国内のヘルパー事情についての長い情報番組を聴きました。確かにそうだよなと思ったことは、ドイツが難民の生活全般に対して、無償のボランティアであるヘルパーに頼り過ぎているということ。そして多くのヘルパー達がそろそろ気力体力の限界にきているということです。ヘルパーも多すぎては混乱するし、ドイツにはそのような団体がわんさかあるので専門家にまかせればいい、というままではいかなくなってきているようです。ヘルパーが無理なく持続できるシステムを早急に作らないと、一部の右翼団体が大喜びしてもっともっと騒ぎ始めますからね… それに感染する人間もでてくるはずです。難しいですね。

2015年11月22日日曜日

死について考えろ!?

 ドイツ人の知人が某キリスト教団体主催の、禅瞑想(ドイツ語直訳)に参加したそうです。好奇心旺盛で勉強家の彼はすかさず私に聞いてきました。「座禅している間、目はとじなきゃいけないのか?」「そこの禅の先生は、いつも死のことを考えろって怖いくらい脅すんだけど、それが禅仏教なのか?」さすがに二つめの質問には苦笑してしまいました。  私は座禅会参加者の方には、なるべく目を開けているように伝えています。なぜ座禅するのか?答えは明らかで、よりよく生きる為です。この「生きる」の中には、もちろん死も含まれています。そして、日常生活の大半は目を開けて過ごしています。目を閉じた状態でだけよりより状態にもっていけても、普段の生活には何の役にもたちません。また、目を閉じると妄想がかえってたくさん湧いてきやすくなります。そのまま眠り込むことも簡単です… 逆に、一部のヨーガ瞑想のような、なにかと一体化を目指す場合には目を閉じた方が入りやすいでしょう。  「死について考えろ!」と怖い顔で脅されながら目を閉じて座禅を組んだら、妄想の嵐で心音が一気に速くなりそうです。w 死に至る過程を考えるのか、その瞬間を考えるのか、死後のことを考えるのか…一口に死について考えろといわれたら、多くの人はこのようなことを思い浮かべるのではないでしょうか。死を考えることは同時に生を考えることにつながるはずです。そこを忘れて、死の恐怖に立ち向かう方法だけを思案することになってしまっては、おかしな信仰に繋がりかねません。また、死を考えることが中心になるあまり、今ここ、に生きていることが疎かになるのはおかしな話です。生死双方への意識バランスがとれたところに初めて「よりよく生きる」意味が見いだせると思うのです。

2015年11月17日火曜日

難民ヘルパー

 ヘルパーの登録からいったいどれくらいたっただろうという今日この頃、そしてまさしく今この世界情勢の中で、ヘルパーとしての出動要請を今日頂きました。課題はドイツ語取得のヘルプ…!冗談?日本人の私に?おそらく子供相手のことだとは思いますが、いやはや、どうなることやら… また報告いたします。

2015年11月15日日曜日

般若心経ドイツ語訳 Herz Sutra in deutsch

以前から心経のドイツ語訳の千差万別さにちょっと戸惑っていましたが、これじゃいけないと思い、現在約10のドイツ語訳の比較作業をやっています。サンスクリット語からの訳がもちろんほとんどですが、サンスクリットから漢訳へ訳された時に、追加意訳されたであろう箇所がわかり楽しいです。それにしても漢文って美しいなあと実感します。漢字間に含まれるニュアンスが水墨画の鑑賞のようです。全くの私見ですがドイツ語訳をみていると、漢字間、空間に含まれるニュアンスをあえて言葉で表現しようとするあまり、付け加えた言葉がしっくりこない訳も多々あります。その部分をどのように解説しようか、今から思案中です… 来年早々、ヴァージョンアップしたドイツ語の心経を読む会を開催します。

2015年11月10日火曜日

銀河鉄道999

 子供の頃大好きだったこのアニメ。最近、夢中になってまた見ています。子供の頃まったく気がつかなかったのですが、999のお話は仏教のお話に通じるところが満載です。松本零士さんは意識されたのかどうかわかりませんが、全編すごいなー、と驚き半分感動半分で見ています。まさに現代の物質文化、機械が人間を支配する過程で起こってくる問題点を取り上げています。999誕生から40年近くたった今の世界が、そのままお話になっています。「死ぬことのない機械の体だったら、希望をもったり、努力する意味がない。」むむむ。そんなメッセージも知らずに私は子供の頃見ていました。娘と一緒に見ようと思います。大人になってからではなく早いうちに考えて欲しいので、ちょっと解説をつけながら…

いじめる側のこと

 ずっと書こうと思っていたことです。日本では、いじめによる自殺が起こるとメディアがこぞって亡くなった子供のことばかり書き立てます。いつどこで誰に相談したとか、直前には普通に話をしていたとか。いじめられた側の立場にたって、どんなにつらかったかシミュレーションします。読む側は本当にいたたまれない気持ちになることは間違いありません。しかし、いじめられた側の詳細な報告はあっても、いじめた側について書かれたものは、猟奇犯罪的なもの以外はほとんどありません。きっと、犯罪特定できない未成年について書くことは人権問題につながるという配慮でしょう。いじめによる痛ましい事件が起こると、亡くなった側の子供への同情と、はっきりしない大人の今後の対策予定の話でいつも終わってしまう。これでいいのでしょうか?私はいじめる側の人間の家庭環境問題や、心の闇をもっともっとつっこんでケアするべきだと思います。そして、力のない学校側のケアも、外部機関とも連携すべきです。特にいじめる側の親御さんのこと。こここから問題点がみえてくると思うのです…

2015年11月4日水曜日

本日狩猟日

 今日は車を使わずに自転車で過ごすことに決めました。仕事で隣の隣の町に行くために、いつものジョギングコースでもある森を横断しようとすると、「本日狩猟日」の警告板が入り口にありました。この警告板を本気で注意する人間はいるのだろうか、と思うほど、みんな完全に無視して森に入って行きます。ジョガー、マウンテンバイカー、犬の散歩、ウォーキング…目的は色々です。すれ違う鉄砲を抱えた狩人(←実際に日本語で書くとかなり時代錯誤的な感じがしますね…笑)も和かに「おはようー!」と声をかけてくる。本当は狩猟は嫌いな私ですが、つられて返事をしてしまいます。森に入っていくと、蛍光色のベストを着た猟犬がクンクンうろうろしています。時々鉄砲抱えたおじさんも木陰に見えます。なんだかなあ、本当にこんなとこで鉄砲撃っていいの?流れ弾当たったら、一番初めに私を見つけるのはこの小型犬?で、どこの病院に運ばれるの?とりあえず、森から脱出するまでに30分以上絶対かかるよね、出血多量で死んじゃうよね?などと、妄想をとりどめなく森の中を走り続け、目的地まで着きました。そして、帰りに来た時とは別の森の入り口から帰ろうとすると、見張り台の小屋の鉄砲をもったおじさんに止められました。 おじさん「今日狩猟日だけど」 私「知ってるよ」 おじさん「危ないよ、入っちゃだめ」 私「…でも、みんな入ってるよ」 おじさん「当たったら死ぬよ」 私「…(だったら完全通行止にしろ!と思いつつ)そんなに腕わるいの?」 おじさん「(ムッときたらしく)いずれにせよ、ここからの坂道はあんたには無理。急すぎて自転車じゃあがれない」 私「楽勝だよ、いつも通ってるもん」 おじさん「絶対だめ、戻って!」 私「戻ったら5キロの回り道になるから嫌なんだけど」 おじさん「だめーーーー!!!戻れ!!!」 私「…」  あきらめて戻る道のりずっと、鹿とイノシシが逃げられるように自転車のベルを鳴らし続けました。おじさんが私の後ろから「うるさーーーい!!」と怒鳴っているのが聞こえましたが完全無視。  家にもどってラジオをつけると狩猟日のレポートがながれていました。なんでも多くの動物愛護の団体が狩猟日に反対してデモを起こしていたようです。それに対してある政治家は「狩猟は我が国の文化だ」とのコメント。あーーーー、どっかで聞いたことがあります… 日本の捕鯨ですね。ドイツの狩人は日本の捕鯨には賛成なんだろうか。と、ふと思いました… 何が一番言いたいのかというと、「他人の命を奪う危険の高い行為は、文化といえども必要あるのか?」「森はみんなのもの。狩人専用の日があるのは絶対おかしい。」ということです。これに対して狩人は「うちらは狩猟税を払っている!」とくるでしょう。こうなると、犬のフンを道端に残して行く飼い主が「私は犬税払っている!それで道の清掃するべきだ!」というのと同じですね。私は両方の意見にものすごい嫌悪感を覚えます。そして、こんな私は鹿もイノシシも鯨も食べなくても十分満足な食生活をしています…

2015年11月1日日曜日

瞑想ブーム

 先日の一時帰国時のフライトの中で、なんと2本もの坐禅や瞑想に関するドキュメントフィルムを見ました。そのうちの1本は、実際に学生、主婦、サラリーマンなど様々な生活スタイルを送る人間が摂心や瞑想セミナーに参加する様子を追ったもので、とても興味深かったです。もちろん、様々な瞑想法があるわけで、マインドフルネス、坐禅、MBSR、シュタイナー法、キリスト教的方法等、どれもその特徴を簡明に伝えていました。そのドキュメント中に現れる指導者達はみな似たような雰囲気を持ち合わせています。穏やかな雰囲気をもち、ゆっくり話す。私とは正反対でした。笑  しかし、これも西欧における「瞑想」というものに対する一イメージの表れではないかと思います。瞑想するからといって、みな穏やかで、何にも動じない人間になるわけではありません。また、それが第一目的ではないと思うのです。不要な怒りや不安とうまく付き合うことができるようになることで、落ち着いた生活ができることは間違いありません。しかし、毎日の生活の中での喜怒哀楽への「人間らしい」反応はそのまま存在するし、それでいいと思うのです。坐禅によって、いま、ここ、に気づき、自利利他の精神が向上すれば、それらの反応が一方通行にはなりません。まさに中道です。  続きはまたこの次に…

2015年10月27日火曜日

3人の禅僧  3 Zen Mönche

 今回の一時帰国中の目的は、仕事に向き合う姿勢のリセットです。滞在中、3人の禅僧のお話を間近に聞くことができました。うち二人は曹洞宗の禅僧の方々です。その著書や、珍しい経歴で日本では有名なお二人です。彼らの一般向けの対談会で、楽しくお話を聞かせていただきました。彼らも、坐禅中に起こる思考の流れについて色々と試行錯誤しつつ座り込んでいるのだなあ、と思いました。しかし終には、言葉で持って言葉を遣る、ということでしょうか。彼らの対談本も拝見しました。現在の瞑想ブームについて、少々辛口で書かれている部分もありますが、それも納得がゆくところです。しかし、ヴィパッサナーやヨーガから日常生活へのポジティヴな変化を体験し、よりよく生きていくことができるのなら、それも方便として私は良いと思います。ただし、そこに執着し、それが生活の足かせになってしまっては本末転倒ですが。若い女性たちのヨガブームも、ヨガが義務となってしまったら意味がないですからね。仕事帰りに週二日は必ずヨガに行くことが、他のことへのストレスを生み出していたり…  そして、3人目は不二般若道場の山本老師です。震災直後、実家にすぐ帰るのが怖く、ここで1週間の摂心を受けてから仙台に向かいました。1週間坐禅しっぱなしの後の私の心は、なぜか晴れ晴れしていました。あの時の、余計なものが最小限まで落ちきってクリアに考えたり見ることができた感覚が今でも忘れられません。そして、老師の冬の晴天のようなカラッとした人柄がとても印象に残っていました。あれから4年。久しぶりに訪れた道場では、私のことを覚えてくださっていた参禅者のみなさんがいて、とても嬉しかったです。そして老師のカラッとした人柄もそのままでした。不謹慎ですが、世界一おいしい精進料理もそのままでした… 今回はわずか4日間の摂心です。時差ぼけで、帰国後まる2日間はほとんど眠れず、体もむくんで、生まれて初めて足を組み続けることがつらかったです。けれど、それでも続けるといつの間にかそれも一つの身体の流れる変化として気にならなくなってゆきます。今回は、山本老師はもちろんのこと、参禅者の先輩方のお話がとても心に残るものが多く、仕事の方向性を少し見失っていた私への良い刺激となりました。私も日々精進していこうと思います。

野球ドラフト

 ドイツは今秋休みの後半折り返しを過ぎたところです。前半は日本に一時帰国していました。帰国中に恒例の野球のドラフト会議をテレビで見ました。今年は我が仙台市から何人か選出されており、嬉しい限りです。新しい野球人生を歩み始める皆さんを心から応援します。  ドラフトの翌朝、近所のまわりをジョギングする子供の姿が、いつもよりたくさん目につきました。イガグリ頭の野球少年達です。きっとみんな、ドラフトで選出された選手達の子供の頃の並大抵ではない努力話を聞いて触発されたのでしょう。思わず「がんばれよ〜!」と声をかけてしましました。照れ笑いする子供の顔はとっても素敵でした。野球賭博問題も噴出していますが、新人選手達には子供の夢を背負うプロとしての自覚をもって、奢ることなく努力を続けてほしいとおもいます。

2015年10月15日木曜日

難民問題2

 うちの近所の体育館が難民用の一時避難場所に使われることになりました。いたって静かで、いつ移動してきたのかもわからないくらいでした。行政側はてんやわんやらしいです。いつか登録したヘルパーの話もまったく音沙汰なしです。私たちが冬季練習場場として使っている体育館も難民用になる可能性大だそうです。  さて、日本では某漫画家のかたの難民に対する風刺画が世界的な問題になっているようですが… 私もちょっと見てみました。その方のコメントも少し見ました。よく知らないことを誹謗中傷的にネットに書き込むのはやめたほうがいいですね。ドイツは難民に対して一人当たり17万円の援助をするって、現金じゃないですよ。健康保険とか、就労に至るまでの語学等の研修費とか一切合切の、現金以外の援助も含めた金額です。  日本の報道や一般のコメントをみると、難民全てが無教養で働いたこともない、プリミティブな人たちのように書いているかたもいますが、ちょっと違いますよ。現地で大学も卒業し、立派な職業人として働いていた人たちもたくさんいます。「運び屋に払う金があるんだったら、難民じゃないだろ」って言っている人もいますが、もっと調べましょうよ。例えば日本人が国を追われて不本意ながら難民になったとして、おそらく多くの日本人が20万円くらい払ってでも国外に逃げようとしませんか?

2015年10月14日水曜日

ラグビー ノーパスポート主義

 今日は久しぶりにスポーツの話題。表題の記事を某新聞でご覧になった方もいらっしゃるとおもいます。ラグビー日本代表の活躍は本当に嬉しい限りです。その顔ぶれが国際色豊かだなと、気になっていた矢先の記事でした。スポーツに国境はない。スポーツを広めるためには、本人重視であって国籍は関係ない。ごもっともです!(もちろんスポーツを広めることが最大目的です。チームの勝利は別として。)ドイツの野球界に長く身をおきますが、このラグビーの精神をドイツ野球界も見習うべきです。私自身、外国人として登録し何年もプレーしましたが、外国人出場制限があるためにレギュラー争いは更に熾烈でした。この規則の根拠の理由がわからないのでもないのですが(お金のあるチームは外国から投手陣を買ってくる)、この野球後進国ドイツにおいて、この規則に抵触できるチームのほうがかなりの少数派です。ましてや少年野球ではありえません… この外国人ルールで、試合になかなか出れずに悲しそうな顔をしてベンチに座っている子供をたくさん見てきました。声を大にして言います。ドイツ少年野球界もラグビーノーパスパート主義に見習え!!

2015年10月7日水曜日

三重 高校同級生殺害事件

 「友人を救いたかった…」  加害者の男子生徒の言葉を聞いて、人間はここまで来てしまったか… という感じがします。この事件は、どこかで見聞した映画や漫画のストーリーを彷彿させるような気がします。けれど、映画ほどドラマチックではなく、登場人物に共感や嫌悪を覚えるまではいかず、どこか中途半端かつサラリとした感覚を覚えます。なんなんだろうなあ…   年少者による殺人事件が起こると決まって「命の大切さを伝えなければ」という世論が勃発します。方向的には間違っていないと思うのですが、まったく良い結果が出ていないのが現状です。どうしてでしょう。  友人を救うという行為は素晴らしいことです。しかし、その友人が死んでしまっては、その友人が本当に「救われた」と言えるのでしょうか。浅はかだよ、と多くの人が思っているのではないでしょうか。以前にも年少者による殺人事件について、ブログで書いたことがあると思うのですが(自分で見つけられませんw)、人物の等価物化が現代社会でとても進んでいます。これは、言葉や価値観がそのまま実存するように思い込んでしまうことです。もちろん万人共通のそのような実存基準などあるわけがありません。それなのに、各人が共通項を求めるためにいろんな歪みが出てくる。幸せ、つらい、痛い、大丈夫、ちょっと無理、きつい、かわいい、かっこいい、などなどちょっとした形容詞を例として考えてみると分かりやすいかもしれません。この男子生徒の場合、「救う」という定義が多くの人間の考えるものと大きくずれていたのは間違いないでしょう。同じように「救われたあとの状態」の定義も同じです。一般に、救われたというと、命が続いたとか、危機を乗り越えた、という意味が含まれる気がします。こんなにつらいのなら死んだほうがましだ、という状況においてでさえ、そこには死後の世界、いわゆるあの世や天国へとなんらかの形で精神の一部が続いていく希望のようなものがあります。果たして、この二人の高校生の間にはそのような感覚はあったのでしょうか。死んだ女子高生には、死後の世界への憧憬があったかもしれません… もしそうだとしたら、その彼女の憧憬をこの男子高校生は100パーセント共感していたとは思えないのです。死後の世界を共感できるもの同士が殺し合い(自殺)をするという事件が、過去に狂信的な新興宗教団体でありました。しかし、そのような方向に行くわけでもない。共感していたら、「ぱっと願いを叶えてあげる」という立場にはすぐにいたらない気がします。なぜなら、願いが叶ったあとのことは誰もわからない世界ですから、本当に自分が願いを叶えてあげられるかどうかもわからない、わけです。  この事件から、私がとても中途半端かつサラリとした感覚を覚えてしまうのは、「死にたい」という願いが、まるで自動販売機に硬貨を入れればすぐに希望の缶ジュースが出てくるような感覚で叶えられてしまうことにあると思います。同じように健康な若者には「生を授かる」ということも簡単になってしまっている。最初に戻りますが、「命の大切さ」がなぜ伝わらないのか。その理由は、自身の命を大切にされたことがないから。自身が唯一無二であることから遠ざかりたがっているから。に尽きると思います。唯一無二の存在であることを遠ざける、というのは、万人共通であるように思えている外に見える形だけを追い求めているから、と言えましょうか。  「自分のことが一番大切なのだから、他人もきっと同じように自身が大切。」と気づいた、という有名なお話が勝鬘経にあります。ここがポイントのような気がします。自分が一番大切と思えること、それが他の命の大切さへの共感へつながると気がします。

2015年9月29日火曜日

スマホ

 座禅会で最近よくきく話題が、子どものスマホ中毒。これは国境を越えた問題ですね。スマホを取り上げたばかりに、子どもによる母殺しまで起きていますね。私も他人事のように、とりあげちゃえばいいのでは?連絡用なら、学校から帰って来たら返して貰えば?と言ってしまうのですが、渦中の親子間ではそんなこととても言えない、と言われる方がほとんどです。正直に申し上げると、その誰もが子どもに遠慮している親御さんばかりに感じます…  私の知人に、携帯を絶対にもたない主義の人間がいます。彼は仕事をバリバリにこなす一流の銀行マン。プライベートでは私の所属する野球協会を統率する責任者です。先日、彼の2週間の休暇中にある問題が起きました。彼の助言を求めたく、連絡をしたくとも連絡先がわかりません。バカンス先のホテルにまで電話をしようと思いませんが、携帯だったら…と思ってしまうところが、私も携帯に飼いならされてしまった現代人です。結局、2週間後に彼が戻ってきた頃には、問題が小康状態になり、あたふたした2週間前とは違った報告を彼にすることができました。その時、考えたことは、「携帯をもたないって座禅に近いものがあるよな…」ということ。連絡を受けても、遠方にいる彼は結局何もすることはできません。何かしらアドバイスはできるかもしれませんが、結局2週間の間、脳裏の隅に問題があることを気にしつつ過ごすことになるでしょう。私のほうは、2週間経ってみれば、連絡なしでもどうにかなっていることに気がつきました。「いま、ここ」にないことを、気にしつつ過ごすことほど神経をすり減らすことはありません。いわゆる未来への心配、過去への後悔が良い例です。携帯によって簡単に気持ちの吐き出しができる現在、携帯によるコミュニケーションが必要のない神経のすり減らしへと直結していることを改めて感じました。結局、彼は2週間のバカンスを思い切り楽しみ、起こった問題を帰って来てから1時間の濃いミーティングをもって仲間たちと解決するにいたりました。問題を抱えた2週間と1時間。どちらが精神的に健康か明らかです。  携帯によるコミュニケーションのほとんどは、「いま、ここ」にありません。特にSMSやメイルなどは、送った瞬間に自分の気持ちの吐き出しが相手に届いた気になりますが、それは勘違いです。返事がすぐにこないと「無視された」など否定的に考えてしまう人も多いとおもいます。しかし実際は、頭の中で勝手に相手とのコミュニケーションが一人走りしているだけです。落ち込みがちな方、うつっぽい方には、なるべくメイルではなく直接お話しするようにしたほうがいいですよと申し上げています。この返事を待つ間に、気持ちがどんどん悪い方に引き込まれてしまう可能性が大ですから。

2015年9月23日水曜日

小学校の宗教の授業

 ドイツの学校には宗教の授業があります。ほとんどの学校がキリスト教の授業ですが、最近ではイスラム教の授業なんかもあるらしいです。もちろん選択できます。授業を受けないことも可能です。  私が住む田舎の小学校には外国人自体が少ないので、選択肢は他にありません。やはり内容が気になるので、小学校に上がると同時に先生に聞いてみたところ、内容は宗教じゃなくてほとんど道徳だからとのこと。そんなこんなで1、2年生のころは授業内容もあまり気にとめることもなかったのですが、最近娘がうかない顔をしているので聞いてみたところ、授業がさっぱりわからないと言います。3年生になってから、カトリックとプロテスタントの2グループに授業が分かれました。この時にちょっと疑問に思ったのは確かです。道徳に宗派など関係ないはず…とりあえず様子をみていたところでした。娘が言うには、難しすぎて先生が言っていることがわからない。わからない言葉が多すぎる、他の子供達は手をあげてちゃんと答えられるのに、私はチンプンカンプンとのこと。よくよく話を聞いてみると、確かに時々教会に通ったりしない限り聞かない専門用語がずらり。うちの旦那は信仰心のほとんどないプロテスタントです。ゆえに、教会には結婚式や洗礼式なんかで招待されない限り、出入りすることはほとんどありません。娘がわからないのも無理ありません…なんだかかわいそうになると同時に、ちょっと真剣に考えてしまいました。  先日、教会税について書きましたが、ドイツ人にとって教会に所属するのはごくごく自然のことです。日本人が子どもの頃、お宮参りや七五三に行くように、いつのまにか親によっていづれかの宗派に所属し、大人になってから自分の意思で離脱したりする人間もいます。離脱するのは、自分自身で宗教について比較検討できる能力が備わった末の決断、と私は考えています。そのためには比較要素をきちんと理解しなければならない。宗教理解は他人理解にもつながります。そんな理由で、娘を授業に参加させていたのです。しかし、親がフォローできない授業を受けさせ、そこでおかしな劣等感を感じさせる必要はあるのか?道徳という観点が抜け、宗派の授業になるのは私も本意ではありません。ならば、私がきちんと説明できることを家で教えてあげるほうがいいのではないか?そんなことまで考えてしまいました。しかし、まだ8歳の子どもからしてみれば、みんなと一緒の授業を受けてナンボの世界。しばらく様子をみることにしました…

2015年9月22日火曜日

曇りのない心で

 「座禅やっても何も感じないんだよね」「座禅やってもなんか変わらないんだよね」これ、よく聞く言葉です。前者はスポーツをよくやっている人、以前何かの中毒だった人から。後者は、ちょっとうつ状態の人からよく聞く言葉です。座禅に不思議はおこりません。宇宙から体全身にエネルギーが舞い降りてくるわけでもないし、突然光がさして昨日と違う私になるわけでもありません。外に外に「今とは違う自分」を求めても、そこに評価を下す根本が同じであれば、常に不満足で終わってしまうでしょう。だったら、いつも同じ評価を下さずにはいられない、自分の思考のクセを変える方がてっとりばやく変化を感じることができるかもしれません。とはいえ、これが対人関係への評価となると難しいです。例えば夫婦喧嘩をしたときとか!笑 「大乗起信論」に説かれている五つの鏡のような曇りのない心で事象を映せることを目指したいものです…

2015年9月19日土曜日

教会税と難民

 ドイツには教会税なるものがあります。この税金はその名の通り、キリスト教教会の活動に割り当てられます。宗教に関して税金があること自体、日本人には全く想像もつかないことです。もちろん、ドイツ人全てが払っているわけではありません。キリスト教徒ではない私はもちろん払っていません。教会に賛同できない人間は払わなくても構いません。そのさい、教会から離脱することになります。教会税の仕組みや人々の意見となると、長くなるので今日はやめておきます…  さて、昨日の座禅会の参加者のドイツ人女性と話をしていたところ、教会税の話になりました。彼女は、「私はキリスト教とは無縁、興味もない。」と普段から言い切っていますが、この教会税はまだ払い続けているとのこと。不思議に思ってその理由を聞くと、「XXXに住んでいるシスターのXXXさんは、私が今まで出会った誰よりも困った人間を助けている。彼女と話すことで癒される人間は数知れない。私は彼女の生活を援助するために税金を払っていると考えている。」とのことでした。  論理的に考えたら、その彼女の教会に直接寄付した方がはやいかもしれません。それは彼女もわかっているはずです。話終わった後ウィンクをする彼女は、とても優しい顔をしていました。  先日は難民の話題となりました。多くの難民が教会系の団体から多くの支援を受けています。このドイツ人女性の善意の一部もそこにまわっているわけです… もちろん彼女は難民のことは心配していないそうです。  つい先ほどニュースで聞きましたが、難民全てに無料で健康保険が保証されるそうです。すごいなあ…  

2015年9月17日木曜日

難民問題についての温度差

日本でも難民問題について毎日取り上げられています。日本の皆さんには伝わっていないと思うのですが、ここドイツではほとんどの人間が「大げさに心配していない」のです。ネット上でいかにドイツの将来がまずいことになるか的な悲観的コメントをよく見かけますが、多くのドイツ人はどこ吹く風でいたってクールです。生死がかかってるんだから助けるのは当然、あとはどうにかなるよ…という意見が私の周りでもほとんどです。

2015年9月15日火曜日

経行 Gehmeditation

 先日、1時間ほど集中して経行をしました。それもカタツムリの赤ちゃんの速さで。裸足で2呼吸につき一歩。まさにスローモーションの世界ですが、これほど自分の足の裏の構造が手に取るように「見えた」のははじめてでした。おまけに自分の足の裏がこんなに柔らかく感じたのも生まれてはじめてで、いつの間にか1時間が過ぎていました。今更ですが、人間って自分の体のことを知っていそうで、実は全然知らないかも…と実感しました。

2015年9月9日水曜日

子供の表現力低下と英語…いじめ対策

 テレビやラジオ番組の中で、時々子供へのインタビューを聞くことがあります。この夏日本でももちろん同じように子供へのインタビューとその答え多く聞きましたが、なぜかしっくりこない感覚を覚えることが多々ありました。何故だろう…答えはすぐに出てきました。なぜなら、子供の答えがどれもこれもどこかで聞いたことがあるようなセリフだったから。例えば戦後70年という節目についての質問では、「後世に記憶をつないでいかなければならないと思った。」「二度と過ちを繰り返してはいけないと思った。」小学校低学年と思われる子供がこう答えています。確かにその通りです。しかし、この年の子供が、「後世に繋ぐべきもの」や「二度と繰り返してはならない過ち」を一体何と比較してそう答えているのか、と考えると、それらの答えがどうしようもなく薄っぺらなものに感じられてしまうのは私だけでしょうか。メディアはもちろん、そのような優等生的答えを「素晴らしい」と発信します。見ている方もそうだそうだ、こんな小さな子供がこんな立派な答えをするなんて素晴らしい、と同感するわけです。しかし、私には子供の「これを言えば正解」的な発想が見えてしようがありません。
 この話をある小学校の教師をしている友人にしたところ、それはしょうがない、とため息をつかれました。文部省がだす学習指導要綱に、あるべき理想の答えとして、そのような例はいくらでもみられる。そのような答えを引き出すための授業を教師は行っている、とのこと。なんだかなあ…
 最近では小学生が英語を学校で学ぶようになりました。多くの著名な学者がそれに対して異議を唱えています。その理由は、「まずは母国語で自分を表現できるようになることが最優先、外国語取得はその次」というものがほとんどです。外国語を話せるというだけだったら、私たちよりずっと発音の正確なコンピューター機器のほうに軍配があがるでしょう。けれど、話す内容や、テンポ、声のトーン、顔の表情、話の間、相手を思う度合い、等は千差万別であるはずなので、それはコンピューターにはまねできません。話す内容のないまま言葉ができても、相手と対等に渡り合うことはできないことは明らかです。
 今の小学生にどうしても英語を学ばせたいならしようがない。けれど、それと並行して、もっと自分自身の意見を探って表現する力を身につけてほしいと思います。正解、不正解などない、表現して相手に伝えるという作業の楽しさを学んでほしい。自分が一体なにを感じているのか、それを正確に言葉にする作業は簡単ではありません。100パーセント伝えることはまず不可能でしょう。けれど、だからこそ伝えようと一生懸命になる。ここから会話がはじまります。そのためにはまず教えるほうの立場がその練習をはじめないといけないでしょうね…
 100パーセント伝えることはできないけれど、話してみる価値はある、聞く価値はある、話してもいいんだ、聞いてくれる人がいるんだ、相手が自分を信頼して話しをしてくれている、と子供が思えるようになること。これはいじめの対策にも通じてくると思います。
 


2015年9月7日月曜日

福島 桧原湖にて夏休み

 ご無沙汰いたしております。ドイツの学校は今日から新学年のはじまりです。zenzai53も長い夏休みを頂いておりましたが、今日からまた活動しています。
 夏休み中にあった色々な出来事をぽつぽつと書いていこうかと思います。今年もまた、実家の仙台に帰省しておりました。その間に、福島県の裏磐梯方面へ子供を連れて短期旅行をしてきました。裏磐梯は子供のころよく訪れた思い出の地です。今回の訪問は一体何年ぶりでしょうか。五色沼も桧原湖も子供のころのイメージと全く変わらず、美しいままでした。磐梯山頂への急な山道もそのまま。とても懐かしかったです。桧原湖でのカヤックと水遊びは最高でした。ドイツ人に「福島で夏休みを過ごした」というと、ぎょっとされます。福島という言葉には、原発事故のイメージしかありませんから。説明してやっと、夏休みが過ごせる場所があると知ると、半信半疑で納得してくれます。
 原発事故については、日本国内でも急速にその興味が失われているのがわかります。しかし、地元福島の新聞やテレビニュースでは、未だに主要項目として大きく取り上げられています。新聞一枚にしても、大手紙と地元紙の温度差が異様に思われます。
 未来への好奇心が、オリンピックをはじめこれから新しくはじまるものだけではなく、震災被害からの復興という好奇心へもっと目が向けられることを祈ります。オリンピック開催に関して多大な損失がすでに出ていますが、その分でどれだけ震災被害者の新しい住まいへの補助へなっていたかと思うと、日本国の名を背負った議員や開催関係者への不信がとまりません。オリンピックを開催しても、被災者にその利益はどれだけ落ちるのでしょうか。おそらく全く落ちないでしょう。
 桧原湖周辺の旅行関係者が旅行者に向けて、被災者として未来への子供達にメッセージを伝えていました。子供達は真剣に聞いていましたが、それを聞く親御さんはどこか「ちょっとうざいな」という雰囲気があったのは事実です。
 アダム・スミスが『道徳感情論』の中で言っています。遠い国の未曾有の被害が起こった後に、他国に住む者から「深い哀悼」の意が発せられたあとには、嵐の静けさのごとく、その遠方で起こったことは忘れ去られていく…悲しいかな事実です。じゃあ、私にどうしろっていうのよ、と不快に思われている方がいるかもしれません。その苛立ちの一端を私ももっています。まずは震災への興味を失くさないこと。その興味が日常生活の色々な場面で繋がっていることを発見し、それを知人に伝えたり、または援助団体に賛同参加したり、福島を訪れてみたり、子供に伝えてみたり…と、伝言ゲームのように繋がっていくといいですね。

2015年7月23日木曜日

Baseball Sport AG ドイツの学校で野球指導

 今年はドイツの中学生に野球を指導する機会に恵まれています。すでに3校、約50人の野球初心者の子供達に指導をしました。 
 AGとはArbeit Gruppeの略で、要するに短期集中のセミナーです。作詞、ヒップホップ、ヨガ等いろいろです。子供はその中から好きなものを選択します。
 野球AGの評判はありがたいことにとてもよく、また来年もという声を、学校始め子供達からも直接頂いています。しかし、そこからうちのチームにぜひ来て頂戴、とはなかなかうまくいきません。この年頃になると、大体は何かしらのスポーツチームで定期的に活動している子供がほとんどです。男子は80パーセントサッカーでしょうか。しかし先日、この典型的な中学生活からはずれている子供たちに出会いました。そのほとんどが外国籍、あるいは移民の子供たちです。理由は様々ですが、力と時間を持て余している彼らに同情せざるを得ません。そして、その多くが集中力が欠け、ちょっとしたことでカッとなる傾向にあります。彼らのイライラが手に取るようにわかるので、切ないです。さっきまで不機嫌な顔をしていたくせに、上手く送球や打撃ができて褒められると、輝く笑みを見せる彼らにもっとチャンスが与えられるといいのですが…

2015年7月20日月曜日

国際養子縁組

 先日、国際養子縁組のドキュメントをテレビでみました。デンマーク人夫妻がエチオピアから姉弟の二人を養子に迎える3年にわたるドキュメントでした。感想は「ありえない」の一言です。同じ養子親の立場として言葉を失いつつ見ました。
http://www.ardmediathek.de/tv/Reportage-Dokumentation/Dokumentarfilm-im-Ersten-Die-Adoption/Das-Erste/Video?documentId=29439670&bcastId=799280
 ありえない一つ目は、養子(乳飲み子ではありません)が養子親に引き渡される直前まで、実親と子供が一緒にいること。何がいけないの?と思われる方がいるかもしれませんが、ちょっと想像してみてください。或る日突然慣れた親元から直接、言葉も通じない、肌の色も違う、生活様式も違う「未知の人間」の元に送り込まれる幼児はどのように感じるでしょうか。元の生活に戻りたい一心でもちろん反抗します。全身全霊で意思表示をします。そして養子親は途方にくれます。「こんな子供は望んでいなかった」と。このドキュメントでは4歳になる姉が、どこまでも拒否反応を示します。それに対してまだよちよち歩きの弟は、実親から引き離されたという感覚さえもまだはっきりしていないようで、理想の養子となっています。
 問題は養子親。養子に限らず、子供がなんでもおとなしく言うことを聞く方がおかしいです。子供が泣く時、叫ぶ時、決まって理由があるはずです。それを理解しようともせずに、「支配者のごとく、この子供はうちの中を叫びで制圧しようとしている」なんて言葉が出てくることに絶句です。全く子供への共感はありません。ましてや養子という特殊状況も全く理解していません。よくこの夫婦は心理テストを通ったなと思いました。
 結局、この姉の方の子供は、デンマークで里子として別の家族に引き渡され、のちにデンマークの孤児院に預けられたそうです。あってはならない状況です。かわいそうで言葉がありません。孤児院に預けられる直前に、「(あなたはいい子じゃないから)もうママもパパもできないのよ。」と、語る養子親は鬼です…この子の心の傷の大きさは果てしないです。
 変わって養子に出したエチオピア人の夫婦はというと、養子に出したことで金銭援助がもらえると思っていたらしく、それがないとわかって落胆します。金銭援助があれば、人身売買になってしまいます。この夫婦は両方ともHIVポジティヴです。養子はネガティヴです。日々の薬代もままならず、6人の子供を抱えて迷った挙句の判断でした。
 毎日、実の子がどうしているか気になってしょうがない。せめて発育報告書がみたいと駆けずり回ります。この発育報告書は、どの国際養子縁組者も、定期的に提出しなければならない義務となっています。この報告書は母国の関係団体に送られ、実親がそれをみたければいつでも見れる仕組みです。私たちも定期的に写真と一緒に提出しています。この報告書にたくさんうれしかったことや楽しかったことが書けるといいね、きっと実のパパとママも喜ぶよ、と私たちは説明しています。この報告書が1回のみで、それ以降数年分が全くこのエチオピア人の実親には届いていませんでした。デンマークで何がおこっているのかまったく耳に入らないわけです。約束と違う、というわけで実親は怒り心頭に達します。
 この養子縁組団体は違法ということでもう存在しないらしいですが、どれだけ不幸な子供がヨーロッパに送られたかと思うと胸が痛いです。エチオピアは当時ハーグ条約に加盟していませんでした。日本は最近になって加盟したようですが、もっと大きく取り上げて欲しいです。日本はこの条約の草稿に参加していますが、加盟はしないという何とも不可解な立場に長くいました。その理由は「日本人に限って養子なんて」というつまらない驕りから来ていたのは事実でしょう。実際、某国会議員が発言していたのを記憶しています。
 今日は興奮して、なんだかまとまりのない文章になってしまいました。日本ではまだまだ特別養子縁組が日の目をみませんが、ここドイツから養子親のひとりとしてこれからも発言していきたいと思います。

 
 
 

2015年7月1日水曜日

Free Tibet !! 戦争のない世界を…

 今日は夕食後、滅多に見ないテレビをダラダラとみることにしました。すると、ユニセフが発表した報告にまず驚き、続いてチベット情勢についてのドキュメントが目に飛び込んできました。
 ユニセフの報告とは、世界中の10人に一人の子供が戦争下で生活しているとのこと。その数230万人に登るそうです。驚異的な数字です。戦争のない世界を、の誓いがはかなくも砕け飛ぶ数字です。この数字に該当する子供たちの多くが宗教の名によるなんらかの暴力にさらされているそうです。
 そして、続けて見たチベット情勢のドキュメント。ここではじめて中国のプロバカンダ映画を目にしました。ダライ・ラマはとんでもなくずる賢く、そして無慈悲、かつ暴力的にもちろん描かれていました。さらに、いかにチベット人がダライ・ラマによって苦しみをうけているかを、暴力満載で描いていました。そして映画のオチは「ダライ・ラマから人々を解放するには中国共産主義が不可欠!!」と、くるわけです。話には聞いていましたが、あまりの幼稚さに苦笑いさえでてきました。
 この映画を見た後、ダライ・ラマの説法を直接聞いた中国人がその差に驚き、真実を探求しつつ、それを外部に発している姿も番組内で取り上げていました。この中国人の彼女の行動には感服します…
 と、宗教と支配欲が全く人間に幸福をもたらさない二つの例を、テレビで偶然にも再確認させられた夜でした…
 

2015年6月22日月曜日

敵か味方か

 人間を敵か味方かに両断せずにはいられない傾向が我々現代人にはあります。特に、西洋の某大国はそれが顕著です。白か黒か、敵か味方か、その線引きほど曖昧なものはありません。中間を見ましょうよ…

2015年6月18日木曜日

Zazen mit Nakagawa Roshi

Am letzten Samstag habe ich an einem Workshop von Nakagawa Roshi von Eisenbuch teilgenommen. Der Workshop Ort war in dem Kloster Eberbach. Der Ort war wunderschön und ruhig. Der Titel vom Workshop war "Mind-full? Mindful". ich finde ihn sehr humor voll ; )Für mich ist es sehr wichtig, dass ich nicht das Basic von Buddhistische Lehre falsch verstehe oder nicht mit meinem Ego ausübe. Deshalb nehme ich immer gerne solche Workshop oder Sesshin teil.

Heutzutage ist Achtsamkeit "Mindfulness" Meditation sehr populär geworden. 8 Wöchige Kurs von Mindfulness Meditation kann man überall finden. Was wir achten müssen, ist der 8 Wöchige "Mindfulness Meditation" Kurs nicht direkt mit Zen oder Buddhismus zu tun ist. Die Grundlage von solchen Kurs kommt aus Buddhistische Lehre. Das stimmt. Woran der Unterschied liegt ? Das kläre ich bei mir, und wir reden immer zusammen darüber...

Am dem Tag hat Nakagawa Roshi natürlich mit dem buddhistische Weg über Mindfulness erklärt. "Buddha-Weg lernen ist sich selbst lernen." Das was. Und das ist überhaupt nicht einfach .... ; )




2015年6月2日火曜日

ウェーサーカ祭にて

 ちょっと今日は辛口です。
 先日、フランクフルトのウェーサーカ祭に行ってきました。その日は1日、色々な仏教系の団体が提供する瞑想、坐禅会に参加しました。チベット系から無所属系まで色々です。そのほとんどが、いわゆる誘導瞑想に近いものでした。誘導瞑想と日本語で記すとなんだか怪しく思えます。決して、幽体離脱や自己啓発を誘うものではありません。要するに、瞑想する人間が今何を感じるべきか、どのような呼吸をするか、といったことを言葉で誘導していくものです。ティック・ナット・ハンの指導法に近いかもしれません。
 この日の指導者達は残念ながら、疑問を投げかけずにはいられない方々ばかりでした。たとえば、「共感」を育てる瞑想の指導者が、参加者のちょっとした質問や行動に共感をもって指導するのではなく、怒りで対応するのは本末転倒です。真言系のグループの指導では、参加者に真言を唱えさせていました。この真言の意味についての説明がほとんどなく、参加者はむにゃむにゃとエキゾチックな言葉をなぞらえるだけです。30分という与えられた時間は確かに短いものです。何を目的とするかによりますが、このような一般に開放されたイベントでは、おかしな方向に進まぬように、言葉による説明が何よりも必要に思えます。実際に座る時間が短くなっても、言葉によるある程度の理解は、わからずに長く座るよりも有効でしょう。
 また、基本中の基本ですが、アクセサリーや時計を外す、携帯の電源を切るといったことができていないのはどうかと思います。個人的には女性指導者のきつい色合いのマニュキュアやメイクでさえ気になります。心身を正して座に向かう上で、まずは指導者自身がそれらを正して参加者に向かうことがなによりも大事に思います。

2015年6月1日月曜日

Reden, Hören, Meditieren, Verstehen --- Naikan Meditation 2

 Seitdem ich zenzai53 gegründet habe, habe ich vielen verschiedenen Kunden kennengelernt. Die Zeit mit den Kunden ist immer intensiv und positiv. Wir reden viel über uns selbst. Viele Kunden kehren zurück zur seiner Kindheit. Wenn wir dort tief mit Mitgefühl meditiere, können wir oft eigene Probleme verstehen.
 Depression kommt meistens aus der Gewohnheit von Gedanken. Diese Gewohnheit ist in länger Zeit in unsere Geist tief geprägt. Meistens kommen aus unserem Erlebnis von der Kindheit, besonderes der Beziehung mit den Eltern.  
 Unsere Gedanken wollen immer nach eine Richtung schnell weg fliegen. Die Richtung kann positiv oder negativ unterschiedlich sein. Aber wenn wir geistlich nicht fit sind, fliegen die Gedanken immer nur eine gewöhnlich Richtung, obwohl wir auch eine andere Richtung denken können. 
 "Chudo" heisst "immer in Mitte leben", nicht immer extrem etwas treiben. Gedanken können auch genauso "Chudo" sein. Beim Meditation können wir "Chudo" üben. z.B. Nicht das Wasser ist halb voll oder halb leer. Sondern, "Da ist Wasser" ; )

2015年5月5日火曜日

グリーフケア Trauerarbeit

 昨日、グリーフケアで傾聴させてもらっている女性が、死別についての意味を「自分自身に戻って生きる転換点だった」と、おっしゃっていました。どこかに飛んでいってしまいそうな感覚、対人恐怖、それらに対して何を土台としたらいいのかわからないと言っていた彼女の顔が、昨日は一瞬とても生き生きとしていたのがとても印象的でした。

2015年5月1日金曜日

『沢木興道聞き書き ある禅者の生涯』

 ブログの更新がいつものごとく遅れているので、久しぶりの書評です。今日は酒井得元著の『沢木興道聞き書き ある禅者の生涯』について。
 沢木興道はあまりにも有名なので、私からの野暮な説明は控えます。この本はまさに自伝で、とても読みやすいです。電車の中や、ちょっとした待ち時間に読めます。タイトルを見る限り、なにやら難解な禅問答的文脈で構成されるのかなと思いきや、すいすい読めます。沢木の言動よりも、当時の一般人の彼を敬う姿や、生活の様子が生き生きと描かれていて、そちらのほうに興味をそそられました。托鉢が普通に行われていたり、風呂の入りぞめ、便所のしぞめ等、ちょっと面白おかしい、けど大真面目な当時の生活が生き生きと描かれています。その当時から100年ちょっとしか経ていないのに、我々の生活はとんでもない勢いで変化してきたのだなと実感させられます。昨今の西欧社会における禅のイメージとは程遠い、泥臭く、そして人間味のあふれる禅の世界がこの本から読み取れます。
 末尾の解説は、碩学鎌田茂雄先生が執筆されています。先生の学生時代の坐禅に向かう姿と、それを支える師である沢木興道との授業でのやり取りがおもしろいです。

2015年4月26日日曜日

恵光センターにて

 先日の土曜日に、デュッセルドルフにある恵光センターを訪れました。以前からセンターで行われている学術プログラムに興味があり、何度も訪れたいなとは思っていましたが、なかなか機会がありませんでした。ドイツにはかれこれ20年近く住んでいますが、デュッセルドルフは全くの未開の地です。(よく在独日本人の方に驚かれます…)今回はデュッセルドルフ在住の知人の50歳の誕生日パーティに招待されたので、ここぞとばかりに行ってきました。
 まず驚いたのは、恵光センターの日本庭園の美しいこと!手入れの行き届いた庭園は、春の花が咲き乱れていて素晴らしかったです。
 そして、久しぶりに仏教学専門の先生から、最新の研究について直接話を聞くことができたのがもちろん一番の収穫です。学生の頃下田先生が授業で、大乗仏塔起源説についての新しい見解を熱をこめてお話しされていましたが、先生の見解が今や主流になっているということを聞きました。日々新しい研究成果が、日の目をみてゆく状況をちょっと垣間見た気がしました。また、2世紀頃のインドでは、僧侶が葬儀に参加することが認められていたことが明らかになったことなど、知らずにいたのでとても勉強になりました。
 デュッセルドルフに住んでいたら、このような学術プログラムに毎回参加するのに…と、ちょっと在デュッセルドルフの方が羨ましくなりました。
 

2015年4月15日水曜日

幸せとは?

 Metta Meditationとよばれる「慈悲の瞑想」があります。自分のみならず、あらゆる他人、そして生き物への幸せを悲願する瞑想です。キリスト教でいう祈りに似ているかもしれません。ここで大事なのは、自利のみではなく、敵さえも含む利他を願うこと。
 色々な「慈悲の瞑想」におけるテキストがありますが、どれにも必ず含まれる「幸せでありますように」という一文。今日、坐禅会にて「幸せ」とはなんぞや、ということが話題にのぼりました。人それぞれその定義は違うと思います。しかし、私たちは他人から見た「幸せである自分」に基準を置きがちのような気がします。他人がみている「私」を、どんなに努力しても見ることはできません。それなのに、無理にそこに合わせようと疲労困憊、空回りしているのが、情報過多社会にいきる私たちです。
 ここ数年、坐禅を通した実感として感じていることは、今この瞬間のみを完全に意識的に生きることができたら本当に幸せだろうなと思います。要するに、過去や未来にこだわらずに今この瞬間を精一杯生きることです。感傷的に聞こえるかもしれませんが、本当にこのように生きれたら、感傷に浸る暇もないほどの刺激的な毎日になるのだろうと思います。

2015年4月5日日曜日

Religion !?

 Letztens haben die Kinder beim Warm-up von Training angefangen zu diskutieren,  was für Besonderheit jeder Religion hat. Sehr Interessant ! Ich habe einfach zugehört, was die Kinder reden.
"Die Muslime glauben einen gleichen Gott wie Christ."
"Irgendwie bin ich evangelisch."
"Meine Religion Lehrerin ist nicht nett"
bra bra bra bra
"Buddhisten sind Drogen Abhängig. Sie kiffen immer."
HÄ!?
Es war sehr lustig und schwierig um die Klappe zu halten. Trotzdem habe ich gut geschafft ;)

2015年3月22日日曜日

Naikan Meditation 1

 Ich mache oft Naikan Meditation alleine zu Hause. Naikan Meditation führt man sich tief in die  Kindheit zurück. Wenn ich mich selbst unfreundlich und unwohl finde, mache ich Naikan oft. Immer wieder schaue ich gleiche Erinnerungen an, die mir immer wieder auftauchen. Von verschiedene Richtungen schaue ich sie an. Nach insgesamt 2 Stelligen Std. Meditation wird etwas mir immer klar, wie meine Gewohnheit von Gedanken und Reaktionen aufgebaut ist. Ich mache regelmäßig gleiche Naikan, dafür ich immer bewusst von meiner Gewohnheit sein kann. Ansonsten vergesse ich sie, und werde zurück zu unerwünschte Gewohnheit.



2015年3月15日日曜日

Ausstellung, Buddha 108 Begegnung

 Heute habe ich mit meiner Tochter die Ausstellung von Buddha 108 Begegnung im Museum Angewandtekunst in Frankfurt besucht. Wir haben mit einer netten Künstlerin eine Kinderführung gehabt. Das Bild hat meine Tochter während der Führung gemalt. Das ist die berühmte Bildhauerei aus Ghandara ; ) Mein Professor hat damals immer weiter die Falten von Klamotten von dieser Bildhauerei gezählt...  so ist meine Erinnerung von der Unizeit mit der Bildhauerei eingefallen ; )


2015年3月14日土曜日

Erdbeben, Tsunami, und AKW in Fukushima.... 4 Jahren sind vorbei. Frau Merkel in Japan.

 ich wollte eigentlich über meine Heimat am 11.03 etwas schreiben. Aber nach vielen Gedanken sind keine richtige Worte eingefallen.  Warum weiss ich genau. ich vergesse auch langsam, wie ich damals alles erlebt habe. Wenn ich die Archiv Photos sehe, wird meine Atmung gepresst und weile denke an tote Verwandte mit Tsunami und meine Orte, die ich schöne Erinnerung von meiner Kindheit habe. Alles hat sich verändert oder ist verschwunden...nicht mehr wie meine Erinnerung. Sehr sehr traurig. Ab und zu kommt die Träne in Augen... Aber. Es ist auch wahr, dass ich immer wieder schneller von solchem Gefühl wieder getrennt werde und mit anderen Sachen fröhlich beschäftigen kann. So ist die ganze Welt, nicht nur ich.
 Viele Einheimische sagen, dass sie sich einsam fühlen, weil die Welt sich an die Katastrophe am 11.03. 2011 langsam vergisst. ich denke eigentlich normal, dass wir nach andere Richtung von Katastrophe sehen können. Sogar finde ich "zum Glück", dass die Menschen schlechte Erfahrung vergessen können. Aber wenn wir nicht von solchen Erfahrungen gelernt haben und nicht für die nächste Katastrophe vorbereiten, ist es sehr sehr sehr schlimm. Das will ich die japanische Regierung laut sagen. Und ich wollte eigentlich mehr harte Worte gegen die japanische Regierung von Frau Merkel während ihre Reise in Japan hören. Deutschland hat entschieden, dass alle AKW in der Zukunft ausgeschaltet werden. Warum kann Japan nicht ? Frau Merkel hat schon paar Worte dafür  gegeben. Aber es war leider nicht genug für die japanische Regierung :...(


2015年3月9日月曜日

おすすめの本 井筒俊彦著『イスラーム文化』 "Islamische Kultur" von Tohsihiko Izutsu

 いつかも書きましたが、毎日ブログ書ける人ってすごいわ… ちょっと視点を変えて、今読んでいる本、最近読んだ本なども書けば良いのだと気付きました。これならネタも底をつきそうにありません。
 今年に入ってからテロ続きで、もう一度イスラム文化について復習してみようと思い、迷わずに、日本が誇る碩学、イスラム文化の第一人者である井筒俊彦先生の『イスラーム文化 その根底にあるもの』を手に取りました。岩波文庫の青シリーズで出ています。井筒先生は残念ながら他界されましたが、先生の著書は永遠に受け継がれていくと思います。
 井筒先生は私が専門研究をしていた『大乗起信論』という仏教論書についてもすばらしい著書を残されています。これは『意識の形而上学』という題名で、東洋哲学覚書として中公文庫からでています。学術史上に残る一冊で、私にとって座右の書です。仏教学専門の先生ではないのに、その視点たるや、素晴らしすぎて言葉になりません。(笑)わけのわからない仏教論理にしかめっ面をしている私の前の霧が、すーっと晴れるてゆく感じをこの一冊を読んでいくうちに感じました。
 そんな経験をしていたので、イスラム文化といったら井筒先生の著書しかないだろう、ということで手に取ったのがこの本です。とにかく読みやすいです。そして薄いです。今世間を騒がせているイスラム文化について、学術的にわかりやすく説明しています。なーるほどと思うような内容も多いので、興味のある方は読んでみてください。最近のテロ事件に便乗して出ている多くの雑学本を手に取る前に、ばしっと一冊選ぶとしたらこの本をお勧めします。

2015年3月2日月曜日

いじめ

 またかと思うような未成年者による殺人事件が続いています。最近のこのような事件の背景には、ほぼ間違いなくコミュニケーションロスによる人物の等価物化がその原因として存在します。LINEやSNS等、生身のコミュニケーションを必要としない世界では、小さな画面から受け取る情報が一方的に脳内で消化されます。返事の待ち受けの間に、更に一方的な期待や想像が膨らみます。そして実際の生身の人間と対峙した時には、脳内でできあがった姿を基礎としたコミュニケーションが優勢となり、互いを「理解しよう」とする前向きな立場よりも、脳内と現実の差の埋め合わせにやっきになり相互理解は夢の彼方へ消えてゆきます…
 このような事態のもっと初期状態がどんなものかを先日の小学校での坐禅ワークショップでもお話しさせていただきました。携帯、ゲーム、テレビ、どれも今や子供が使えて当たり前の時代になりつつあります。なんとなく後ろめたいのだけど、与えておくと便利だし、安全だし、と親側の言い分もわからないわけではありません。しかし、一度全くそれらを離れた1週間を過ごしてみませんか?いろんな発見があるはずです。

2015年2月18日水曜日

小学生と坐禅 Zazen Workshop in der Schule

 今日は日本人学校にて、小学高学年を対象に坐禅ワークショップを行いました。5年生のみなさん、最後まできちんと話を聞いてくれてどうもありがとう!一緒に坐っていただいたご父兄の方々、そして日本人学校の先生方、事務局の皆様、貴重な時間を共有していただき心から感謝を申し上げます。
 伝えたいことが膨らみすぎて、1時間という授業時間はあっという間に過ぎてゆきました。心体の動きが正確にわかるとはどういうことか、心体の自動操縦状態とはなにか、呼吸を意識する大切さ、呼吸がみんなとつながっていること、「あなた」がいることによって「私」と言える自分がはじめて成立すること、こんなお話しをしました。ちょっと難しかったかもしれませんが、大きくなった時に思い出してくれたら光栄です。

Heute habe ich einen Zazen Workshop mit 5te Klasse in der japanischen Schule gemacht. ich bedanke allen Kindern, dass ihr bis Ende richtig zugehört und mitgemacht haben ! Und ich bedanke mich herzlich allen Eltern, die mitgemacht haben, allen Lehrer, die mir solche wertvolle Gelegenheit angeboten haben.
Es gab viel zu viel, was ich Kindern erzählen wollte. Eine Unterrichtsstunde war zu kurz und schnell vorbei. Heutige Thema waren, Was ist Konzentration eigentlich ? Was ist Autopilot von Körper und Geist ? Wie wichtig ist die Atmung ?  "Du" bist da, deshalb kann ich als "Ich" nennen...
Vielleicht war es bisschen schwierig. ich würde mich sehr freuen, wenn alle Kinder sich in der Zukunft an das heutige Thema erinnern würden: ))

2015年2月6日金曜日

うつ病について 2 Depression und Meditation 2

 うつ病の時は、その考えを「排除しよう」「もう抜けれない」と、思うことで思考の堂々巡りがおこることを前回申し上げました。「眠れない」も良い例です。不安の連鎖をとめようとするあまり、よけい眠れなくなります。

 もうひとつ、うつ病時にあえて意識すべきこと、というか我々人間全てがいつも勘違いしているのですが、思考のほとんどは「現実ではない」ということです。たとえば、簡単な例で言えば、「雨」と思うことで実際に雨の中をびしょ濡れになっているわけではありません。「汚物の中」と思うことで実際に汚物の中に身を置いているわけではありません。「私はダメな人間だ」と思っても、旅先で出会うジャマイカ人には興味の源泉となる初めて言葉を交わすアジア人かもしれません。笑

 さらに「え、今経験していることを考えてるじゃない」と、思われる方がほとんどと思いますが、よくよく分析してみるとそうではないことが多いのです。たとえば、過去、未来への思い出や思考はまさに今この瞬間のできごとではありません。過去の出来事でいえば、「現実に起こったことではないか」と反論がでるでしょう。しかし、実際には脳の中で毎瞬変化し続ける経験値への反応です。そして、それらの情報は千差万別です。なにひとつ同じものはありません。これを過去、未来に起こった、起こるであろう「現実」として固定化することで、心身反応とのずれが生じてきます。身近な例で言えば、亡くなった人間との思い出が変化していくこと、食べ物の好き嫌いが変わること。

 また、「銀行振り込みしなきゃ」「今日の夕飯何にする?」「次の会議は何時から?」「あの人の名前はなんだっけ?」「あの時言われた言葉が忘れられない…」と、起こっていない未来と、過ぎた過去に関してはとりとめもなく思考が連鎖してゆきます。これらは言うまでもなく、今この瞬間におこってる現実ではありません。もちろん、人間が予期予防しつつ生活をすることは、社会生活には必要不可欠です。これらがなくてはあらゆる社会機能が滞ります。その一方で、望んでいない思考の堂々巡りに入った時、その思考がどの時点のものなのかを確認する作業は、堂々巡りを止めることに一役買うことができるでしょう。未来、過去と確認後、必ず今この瞬間に戻る。深く呼吸をする。今この瞬間の呼吸が、短い、深い、とぎれる、スムーズ、など詳細に観察しましょう。手のひらをもんで、その感覚を確かめるのもよいかもしれません。そうすることで、もうだめだ、抜けれないと思っている思考パターンと、実際はそうではないことに気づくことができるでしょう。大丈夫です。

2015年1月30日金曜日

うつ病について 1 Depression und Meditation 1

 毎日暗くて太陽の出ない冬は、気分が滅入ってしょうがないという方は少なくないと思います。特にうつ病の経験のある方は、冬になると再発の可能性が高まるようです。本当につらいですよね。せめて外界が、燦々と太陽が輝いていれば、どんなに救われることか。とはいえ、こればかりはどうしようもありません。以下は、坐禅会でいつもお話しさせていただいている内容ですが、現在うつ等で悩まれている方の参考になれば幸いです。
 つらい、悲しい、苦しい、もうだめだ、といった否定的な思考回路がはじまると、それらを「排除しよう」として思考の堂々巡りがはじまります。思考への「執着」です。思考には必ず、1はじまり 2中間 3終わり があります。否定的な思考がおこり、2中間の時点で、この否定的思考を「排除しよう」という新しい思考が加わることによって、最初の思考が 3終わり に至ることなく、次の「排除しよう」という意識と混濁してゆくことによって、うつ状態になります。もう、だめだ、この思考から逃れられない、という気分に陥っていくわけです。
 かなり簡単な説明になってしまいますが、坐禅によってこれらの堂々巡りの思考を「見ます」。「排除しよう」としている意識まで、赤の他人的にみます。見ることによって、それがただの流れる思考にすぎないことを実感できるようになります。そして、今この瞬間に、体全体で「実際に」経験していることに注意を向けてゆきます。一番気づきやすいのは呼吸でしょう。どんなに苦しくても、嬉しくても、興奮していても、寝ていても(笑)呼吸は、今この瞬間に私たちが実体験しているもので、一番気づきやすいものです。経行(歩く禅)がうつ病の方に向いているのは、坐っているよりも、体の動き、五感がはっきりと意識できるからだと思います。歩くことによって、今この瞬間体験していることへの注意の切り替えが、坐禅よりもスムーズにいくでしょう。
 否定的思考を「排除しよう」と反応するのではなく、「あ、きた」と見て、次には自分の呼吸なり、足の動きなり、動かしている手の動きなりに注意をむける。歩いている時なら、「右足」「左足」、料理中なら、「切る」「剥く」「かき混ぜる」と、行動にラベルを貼っていくのです。いわゆる行動の実況中継です。地味な作業の繰り返しですが、これによって「自分は今最悪の状況にいる」ということが、大体の場合違っていることに気がつけるはずです。
 この作業は、日常生活のいつでも練習可能です。シャワーを浴びている時、食事中、掃除中、バス停まで歩く時、ちょっとした時間に集中してやることはとてもよい練習になります。特に冬期は家にこもりがちなので、意識して外で体を動かすことが必要です。体を動かすことで、体の芯に力を感じることができます。はじめは疲れ切っても、毎日続けることによって、息切れがなくなったり、長い距離が歩けるようになったりと、体の変化を「実体験」することが力となります。
 とにかく、うつが襲ってきたら、無理に「排除しなければ」と戦わないこと。がんばらないこと。これにつきるのではないでしょうか。戦いにのることは、敵である否定的思考回路に更なる栄養を与えて、喜ばせるだけです。大丈夫、必ず良くなります。

2015年1月19日月曜日

外国人

 最近のドイツのテレビやラジオの討論番組は、テロから始まり宗教一色。プラス、 ペギーダやら某政党やらが対イスラム的な態度を押し出しています。それだけではなく、外国人全般への批判へと矛先が向きつつあり、よく考えると外国人という点では自分もそういう対象なんだよな、と考える日々です。

2015年1月16日金曜日

テロ事件に関して思うこと色々

 某二大宗教権威者がテロ事件に関して発言したその内容に共感を持ちました。
「表現の自由には限度がある。公益に資することへの発言には自由と義務があるが、それが他人を害するならば口にするべきではない。」この後続けて、他人の信仰を挑発侮辱してはならない、とも言っていました。全くその通りだと思います。テロリストが他人の命を脅す権利はどこにもなく、それに対して発言することは公益に資するでしょうが、諷刺画はテロリスト以外のイスラム教信者の心を深く傷つけているでしょう。また、今まで宗教に関心をもたなかった人間が、面白半分かつ確かな見識をもたぬままイスラム教に対するイメージを受容する可能性は大です。
 もう一方の権威者は、「これ以上の軋轢を避けるために今は声をあげないように。冷静さ、沈黙、尊厳を保つこと。一方が反応すれば、相手の反応がますます増す。暴力の連鎖を断ち切るために冷静になること。」と言っています。この言葉はイスラム教側からのものです。なんだか仏教僧の言葉のようです。反応することによって、全ては連鎖してゆく。外に向かうのではなく、己自身にかえり、尊厳をたもつこと。今我々が一番必要としていることでしょう。

 

 

2015年1月13日火曜日

言論の自由

 フランスでの新聞社襲撃テロにおける犠牲者の方の冥福をお祈りします。

 日本ではヨーロッパほどの盛り上がりは見せていないと思いますが、この事件を境に、いわゆる「言論の自由」論争が沸騰しています。私ももちろん言論における不当な制限はあってはならないと思います。が、しかし。相手が不快に感じることを、どこまでも押し通すことによって、何かポジティブな変化が起こるとは正直言って思いません…先日も書きましたが、我々の五感で受ける感覚や意識は万人平等ではないので、「言論の自由」と一方が思っても、相手は「ただの嫌がらせ」と受け取ってしまうことは簡単に予想できることです。

 ちょっと話は変わりますが、古代の仏教美術品のなかでは仏陀の姿は表現されていません。当時の信者が頑なに仏陀の言葉を守って、姿形を絵や彫刻などに表現して信仰することを避けたためです。仏陀の姿のかわりに、足跡や、傘の下の空間などで、仏陀がそこにいるかのように見るものの空想の力にまかせたわけです。しかし、時とともにそれらの約束もあいまいになり、彫刻、絵画など仏陀の姿は表現されるようになりました。そして現代では、ヨーロッパのお洒落なカフェやショップなどでも、デコレーションとしていくらでも仏陀の姿がみれます。レストランのトイレの中まで仏陀の彫刻が置いてあるという状況です。しかし、それに対してほとんどの仏教徒が無関心です。ミャンマーでクラブのフライヤーに仏陀の絵を使ったとして捕まった人間がいましたが、私が知る限りでは、風紀規制、あるいは、信仰に対する侮辱として仏陀の肖像が規制されるというのはほとんど聞いたことがありません。バーミヤンの遺跡がタリバンによって破壊された時も、一番大騒ぎしていたのは歴史家や美術史家でした。「遺跡によって争いがおこるなら、なくなったって全然かまやしない。ただの岩山だから。」といっていた仏教僧もいます。

 話の続きは座禅会で、みなさんと一緒に考えたいと思います…

 
 
 

 


 


2015年1月11日日曜日

冬休み

 大変遅くなりましたが、新年おめでとうございます。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 久しぶりのブログ更新です。年末年始はちょっと疲れ気味でした。かれこれ20年も欧州に住んでいますが、未だにクリスマス時期は疲れてしまいます。家族へのプレゼントの準備が一番大変でしょうか…これはどこも同じですね。何故、疲れるのか?私が思うに、相手を喜ばせようという気持ちが、すべてのストレスの根元のようです。人を幸せな気持ちにするのはとても素敵なことですが、それが空振りに終わらないように、全力を尽くしている間がストレスとなります。「実はこんなもの必要ない?」「使わないまま物置行き?」「趣味に合わない?」などなど考えたらきりがありません。そうこうしているうちに、喜ばせようというよりも、義務感でプレゼントを選んでいるような気になり、それがストレスとなります、少なくとも私は。
 しかし、これに全く当てはまらない場合もあります。知人に読んで欲しい本や、友達が好きなお菓子など。家族以外にはすんなりみつかります。どうしてでしょうね。きっと、毎日顔を合わせない人間ほど余計な感情もすくなく、素直にぱっと、喜ぶ顔と品物が結びつくような気がします。私とは真逆だよという方のほうが多いかもしれませんが。

 大晦日と元旦はがんばって色々と料理をしますが、今年は何を思ったか、正月早々納豆を仕込みました。結果は上出来。早速納豆餅を頂きました。

 そしてスイス方面へ友人家族とスキーに行ってきました。今年は暖冬で雪がすくなかったのですが、日本の冬空のような青い空に恵まれ最高でした。
 
 こんな感じで年末年始は過ぎて行きました…その間にも世界中でテロ関連のニュースが飛び交っています。頭の中ではぐるぐると、その原因やこれから起こりうるであろう出来事など日々考えています。ブログに書いてみようと思ってみても、結局は、発する言語への感情や固定観念など万人共通のものなどみつからないので、その差異から誤解を生み出すことは避けようと思います…近いうちにCafe zenzai53か座禅会で、皆さんとはなせたらいいですね。