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2015年11月26日木曜日

難民ヘルパー2

 先日お伝えしたヘルパーの仕事内容が、「ドイツ語習得のためのヘルプ」から「スポーツオーガナイザー」に変更になりました。やれやれ。w 本格的な開始は来週末以降です。長い体育館やコンテナ暮らしで体を動かしたくても動かせなかったみなさんを、どのような方法でスポーツ参加を可能にするか、知恵の出し合いがおもしろそうです。  今日ラジオでドイツ国内のヘルパー事情についての長い情報番組を聴きました。確かにそうだよなと思ったことは、ドイツが難民の生活全般に対して、無償のボランティアであるヘルパーに頼り過ぎているということ。そして多くのヘルパー達がそろそろ気力体力の限界にきているということです。ヘルパーも多すぎては混乱するし、ドイツにはそのような団体がわんさかあるので専門家にまかせればいい、というままではいかなくなってきているようです。ヘルパーが無理なく持続できるシステムを早急に作らないと、一部の右翼団体が大喜びしてもっともっと騒ぎ始めますからね… それに感染する人間もでてくるはずです。難しいですね。

2015年11月22日日曜日

死について考えろ!?

 ドイツ人の知人が某キリスト教団体主催の、禅瞑想(ドイツ語直訳)に参加したそうです。好奇心旺盛で勉強家の彼はすかさず私に聞いてきました。「座禅している間、目はとじなきゃいけないのか?」「そこの禅の先生は、いつも死のことを考えろって怖いくらい脅すんだけど、それが禅仏教なのか?」さすがに二つめの質問には苦笑してしまいました。  私は座禅会参加者の方には、なるべく目を開けているように伝えています。なぜ座禅するのか?答えは明らかで、よりよく生きる為です。この「生きる」の中には、もちろん死も含まれています。そして、日常生活の大半は目を開けて過ごしています。目を閉じた状態でだけよりより状態にもっていけても、普段の生活には何の役にもたちません。また、目を閉じると妄想がかえってたくさん湧いてきやすくなります。そのまま眠り込むことも簡単です… 逆に、一部のヨーガ瞑想のような、なにかと一体化を目指す場合には目を閉じた方が入りやすいでしょう。  「死について考えろ!」と怖い顔で脅されながら目を閉じて座禅を組んだら、妄想の嵐で心音が一気に速くなりそうです。w 死に至る過程を考えるのか、その瞬間を考えるのか、死後のことを考えるのか…一口に死について考えろといわれたら、多くの人はこのようなことを思い浮かべるのではないでしょうか。死を考えることは同時に生を考えることにつながるはずです。そこを忘れて、死の恐怖に立ち向かう方法だけを思案することになってしまっては、おかしな信仰に繋がりかねません。また、死を考えることが中心になるあまり、今ここ、に生きていることが疎かになるのはおかしな話です。生死双方への意識バランスがとれたところに初めて「よりよく生きる」意味が見いだせると思うのです。

2015年11月17日火曜日

難民ヘルパー

 ヘルパーの登録からいったいどれくらいたっただろうという今日この頃、そしてまさしく今この世界情勢の中で、ヘルパーとしての出動要請を今日頂きました。課題はドイツ語取得のヘルプ…!冗談?日本人の私に?おそらく子供相手のことだとは思いますが、いやはや、どうなることやら… また報告いたします。

2015年11月15日日曜日

般若心経ドイツ語訳 Herz Sutra in deutsch

以前から心経のドイツ語訳の千差万別さにちょっと戸惑っていましたが、これじゃいけないと思い、現在約10のドイツ語訳の比較作業をやっています。サンスクリット語からの訳がもちろんほとんどですが、サンスクリットから漢訳へ訳された時に、追加意訳されたであろう箇所がわかり楽しいです。それにしても漢文って美しいなあと実感します。漢字間に含まれるニュアンスが水墨画の鑑賞のようです。全くの私見ですがドイツ語訳をみていると、漢字間、空間に含まれるニュアンスをあえて言葉で表現しようとするあまり、付け加えた言葉がしっくりこない訳も多々あります。その部分をどのように解説しようか、今から思案中です… 来年早々、ヴァージョンアップしたドイツ語の心経を読む会を開催します。

2015年11月10日火曜日

銀河鉄道999

 子供の頃大好きだったこのアニメ。最近、夢中になってまた見ています。子供の頃まったく気がつかなかったのですが、999のお話は仏教のお話に通じるところが満載です。松本零士さんは意識されたのかどうかわかりませんが、全編すごいなー、と驚き半分感動半分で見ています。まさに現代の物質文化、機械が人間を支配する過程で起こってくる問題点を取り上げています。999誕生から40年近くたった今の世界が、そのままお話になっています。「死ぬことのない機械の体だったら、希望をもったり、努力する意味がない。」むむむ。そんなメッセージも知らずに私は子供の頃見ていました。娘と一緒に見ようと思います。大人になってからではなく早いうちに考えて欲しいので、ちょっと解説をつけながら…

いじめる側のこと

 ずっと書こうと思っていたことです。日本では、いじめによる自殺が起こるとメディアがこぞって亡くなった子供のことばかり書き立てます。いつどこで誰に相談したとか、直前には普通に話をしていたとか。いじめられた側の立場にたって、どんなにつらかったかシミュレーションします。読む側は本当にいたたまれない気持ちになることは間違いありません。しかし、いじめられた側の詳細な報告はあっても、いじめた側について書かれたものは、猟奇犯罪的なもの以外はほとんどありません。きっと、犯罪特定できない未成年について書くことは人権問題につながるという配慮でしょう。いじめによる痛ましい事件が起こると、亡くなった側の子供への同情と、はっきりしない大人の今後の対策予定の話でいつも終わってしまう。これでいいのでしょうか?私はいじめる側の人間の家庭環境問題や、心の闇をもっともっとつっこんでケアするべきだと思います。そして、力のない学校側のケアも、外部機関とも連携すべきです。特にいじめる側の親御さんのこと。こここから問題点がみえてくると思うのです…

2015年11月4日水曜日

本日狩猟日

 今日は車を使わずに自転車で過ごすことに決めました。仕事で隣の隣の町に行くために、いつものジョギングコースでもある森を横断しようとすると、「本日狩猟日」の警告板が入り口にありました。この警告板を本気で注意する人間はいるのだろうか、と思うほど、みんな完全に無視して森に入って行きます。ジョガー、マウンテンバイカー、犬の散歩、ウォーキング…目的は色々です。すれ違う鉄砲を抱えた狩人(←実際に日本語で書くとかなり時代錯誤的な感じがしますね…笑)も和かに「おはようー!」と声をかけてくる。本当は狩猟は嫌いな私ですが、つられて返事をしてしまいます。森に入っていくと、蛍光色のベストを着た猟犬がクンクンうろうろしています。時々鉄砲抱えたおじさんも木陰に見えます。なんだかなあ、本当にこんなとこで鉄砲撃っていいの?流れ弾当たったら、一番初めに私を見つけるのはこの小型犬?で、どこの病院に運ばれるの?とりあえず、森から脱出するまでに30分以上絶対かかるよね、出血多量で死んじゃうよね?などと、妄想をとりどめなく森の中を走り続け、目的地まで着きました。そして、帰りに来た時とは別の森の入り口から帰ろうとすると、見張り台の小屋の鉄砲をもったおじさんに止められました。 おじさん「今日狩猟日だけど」 私「知ってるよ」 おじさん「危ないよ、入っちゃだめ」 私「…でも、みんな入ってるよ」 おじさん「当たったら死ぬよ」 私「…(だったら完全通行止にしろ!と思いつつ)そんなに腕わるいの?」 おじさん「(ムッときたらしく)いずれにせよ、ここからの坂道はあんたには無理。急すぎて自転車じゃあがれない」 私「楽勝だよ、いつも通ってるもん」 おじさん「絶対だめ、戻って!」 私「戻ったら5キロの回り道になるから嫌なんだけど」 おじさん「だめーーーー!!!戻れ!!!」 私「…」  あきらめて戻る道のりずっと、鹿とイノシシが逃げられるように自転車のベルを鳴らし続けました。おじさんが私の後ろから「うるさーーーい!!」と怒鳴っているのが聞こえましたが完全無視。  家にもどってラジオをつけると狩猟日のレポートがながれていました。なんでも多くの動物愛護の団体が狩猟日に反対してデモを起こしていたようです。それに対してある政治家は「狩猟は我が国の文化だ」とのコメント。あーーーー、どっかで聞いたことがあります… 日本の捕鯨ですね。ドイツの狩人は日本の捕鯨には賛成なんだろうか。と、ふと思いました… 何が一番言いたいのかというと、「他人の命を奪う危険の高い行為は、文化といえども必要あるのか?」「森はみんなのもの。狩人専用の日があるのは絶対おかしい。」ということです。これに対して狩人は「うちらは狩猟税を払っている!」とくるでしょう。こうなると、犬のフンを道端に残して行く飼い主が「私は犬税払っている!それで道の清掃するべきだ!」というのと同じですね。私は両方の意見にものすごい嫌悪感を覚えます。そして、こんな私は鹿もイノシシも鯨も食べなくても十分満足な食生活をしています…

2015年11月1日日曜日

瞑想ブーム

 先日の一時帰国時のフライトの中で、なんと2本もの坐禅や瞑想に関するドキュメントフィルムを見ました。そのうちの1本は、実際に学生、主婦、サラリーマンなど様々な生活スタイルを送る人間が摂心や瞑想セミナーに参加する様子を追ったもので、とても興味深かったです。もちろん、様々な瞑想法があるわけで、マインドフルネス、坐禅、MBSR、シュタイナー法、キリスト教的方法等、どれもその特徴を簡明に伝えていました。そのドキュメント中に現れる指導者達はみな似たような雰囲気を持ち合わせています。穏やかな雰囲気をもち、ゆっくり話す。私とは正反対でした。笑  しかし、これも西欧における「瞑想」というものに対する一イメージの表れではないかと思います。瞑想するからといって、みな穏やかで、何にも動じない人間になるわけではありません。また、それが第一目的ではないと思うのです。不要な怒りや不安とうまく付き合うことができるようになることで、落ち着いた生活ができることは間違いありません。しかし、毎日の生活の中での喜怒哀楽への「人間らしい」反応はそのまま存在するし、それでいいと思うのです。坐禅によって、いま、ここ、に気づき、自利利他の精神が向上すれば、それらの反応が一方通行にはなりません。まさに中道です。  続きはまたこの次に…