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2014年9月24日水曜日

呼吸は安全基地 Atmung ist das Basislager der Sicherheit

 某脳科学者が、「自分にとっての確実なものを確認しながらすすむと、フレキシブルに行動ができる。この確実なものとは自分にとっての安全基地となるもの。」というお話をされてました。これをきいてとっさに、坐禅の呼吸だなと思いました。怒っているとき、恥ずかしい時、イライラしている時、緊張している時、危機的状況のとき、どんな時でも我々は呼吸しています。意識が飛び散っても、何があっても、とにかく戻れる安全基地は呼吸。自分の呼吸を観察することが安全基地となります。坐禅そのものです・・・

2014年9月21日日曜日

虚(から)のままにさまざまな物の現われを待つ

 今日の日曜坐禅会は、当初森に経行に行く予定をしていたのですが、昨日から続く雨でいつも通り坐禅室での会になりました。
 経行のつもりで、人間と自然との関係を取り扱ったわかりやすい資料はないものかと、ここ数日色々と文献を探っていました。その中でも、私の内にすとんと入ったものは荘子の一文です。

「心の動きをまず一つにしなさい。耳で強いて聞こうとせず、心で聴きなさい。さらに心で聴くことすらやめて、気で聴きなさい。耳は聴くことしかせず、心は言語との符号しかしないけれど、気というものは、虚(から)のままにさまざまな物の現われを待つのですから。」

 我々は「心」に浮かんだこと、響いたこと、感じたことを、常に言語をもって解説、理解しようとします。そして、その言語背景には、今まで身体五感で経験したことが凝縮されています。たとえば「緑茶の味」といった表現が、人それぞれ実際の味覚が違うように、その意味するものが違ってきます。ここでいう、虚(から)のままとは、この無意識に行っている言語化作業以前の状態をあらわしています。
 自然のなかに身をおくと、わたしは言語作業が遠くにやられる感覚になります。しかし、この「感覚」と言っている時点で、言語化しようとしている証なので、まだまだこの一説には遠いです・・・いやはや、ひたすら歩くのみ。
 次の日曜坐禅会は晴れますように!

2014年9月11日木曜日

タブレット端末と子供のコミュニケーション力 Tablet PC und die Kommunikationsfähigkeit von Kindern

 今夏、子供による凄惨な事件が日本でありました。かなり以前にも、似たような事件がありました。「人称」をテーマとした研究をしていた私は、このような事件の加害者である子どもの心の動きが研究内容と大きく関わっていることに気付き、度々関連する社会的動きを気にとめていました。
 子どもに「いのち」の大切さを訴える試みは日本各地でも見られます。しかし今日、たまたまそれらの努力に反するような話を耳にしました。というのも、タブレット端末を全国の児童生徒に、5年以内に教材として使用出来るよう文部省が計画しているそうです。そのテスト校となっている先生の口からは、コミュニケーション力が育つという話も飛び出し、正直に申し上げると不安を感じました。家で授業を予習して、学校でもまた端末を使って復習するというものです。
 子どもの大事な社会教育の場でもある、教室でのコミュニケーションがなくなるのは非常事態に思えます。先生の話を聞く、どきどきしながら手を上げてみる、先生に指されないか不安でもぞもぞしたり、テストを返却される時のそわそわ感、こっそりお友達とおしゃべりしたり、先生に怒られたり。そんな何気ない場の共有がどれだけ子どもの成長に大きく関わっているか想像もつきません。家庭でのテレビやゲームが問題視されていることと、先端技術の端末を使うことは別でしょうか?全く同じとは言えませんが、「あなた」「わたし」の呼応関係が成立しない点では同じです。人間は「あなた」「わたし」と呼び合い、すぐ反応が返って来る生の呼応関係が必要です。それがなくなると人物の等価物化がはじまり、自己内呼応で満足するようになってゆきます。ストーカーの心理状況と同じです。しまいには、呼応のあるべき人間が、ゲーム上のリセット可能な人物に近くなっていくわけです。タブレット端末を導入する財政余裕があるなら、もっと違うところにお金をかけましょうよ・・・

2014年9月7日日曜日

憎しみ Haß

 時代錯誤のロケット弾が未だに世界のどこかで飛び交っています。その原因は相手への「憎しみ」。そして、そこには相手を力ずくで、自身が理想とする姿に変えたいという欲望が必ず伴っています。どんなに科学技術が発達しても、人間の避けがたい負の心の動きは石器時代のままです。石斧や槍で戦っていた時代の人間を「未開」だなんて、笑えたもんじゃありません・・・
 Die Zeitにキリスト教的立場の、破壊的行動に対する行動をどうあるべきかを語っている記事がありました。詳細は書けませんが、正直に申し上げると、今更言わずもがな世界が既にそのような方向に動いているではないか、という感想です。ただし、多くの人間が、公共メディアを通して声を上げるということはあまりないので、こういった記事はある意味珍しいかもしれません。
 では、仏教的立場はどうかというと、よく知られた経典『ダンマパダ』の一説を読むのが、一番わかりやすいでしょう。
 
“実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。”

 もうひとつ、仏教的明らかな立場として簡単に説明すると、他人を変えるのではなく、自己を変えることの重視。要するに自身の視点をまず客観的に理解すること、そしてそれを変化させることで新たな他者との世界が広がる。ということでしょうか。確かに仏教的非暴力の立場からは、即効性の解決策は見出せません。そして、自分だけではなく、相手もこの考えの一端に同意とまでいかずとも、興味が示されなければ、平和への一歩は程遠いことは明らかです。

 いつも坐禅会に参加してくださる方から、「慈悲の瞑想」を世界中の人間がすればいいのに。との言葉を頂き、私もここに考えていることを少し書いてみました。

Anachronistische Raketen grasieren immer noch in der unseren Welt. Die Ursache ist einfach "Haß". Da gibt es auch Begierde dabei, die die Leute nach seine Glaube und Idealbild  anderen verändern wollen. Dafür ist die Gewalt ein notwendiges Übel für sie. Obwhol unsere Geselschaft so modernisiert und hoch zivilisiert ist, bewegt unsere Geist sich gern nach negative und einfache Richtung wie in der Steinzeit. Wie können wir überhaupt den Menschen aus der Steinzeit lachen, dass sie "unzivilisiert" sind...
 Es gibt ein grosser Artikel über den christlichen Standpunkt für heutigen weltweite Terror und Krieg, der ein evangelischen Pffarer geschrieben hat. ich kann hier nicht alles schreiben. Aber ich habe einem Einddruck von dem Artikel bekommen, dass seine Meinung nicht so neu ist, sondern dass die Welt schon lang solche Richtung sich bewegt... Aber, wahrscheinlich gabt es früher nicht viele Leute, die durch offentliche Media solche Meinung ausgesagt haben. Mit dem Standpunkt kann der Artikel ungewöhlnlich sein.
 Also, dann wie sieht der buddhistische Standpunkt gegen Hass aus ? Hier ist der berühmte Text aus "Dhammapada", der gut darüber geklärt ist.

"Noch nie in dieser Welt hat  Haß gestillt den Haß. Nur liebende Güte den Haß. Dies ist ein ewiges Gesetz."

 Nur wenn man den Haß hinterlässt, wird der Haß gestillt....
 Hier ist eine andere buddhistische Eigenschaft. Beim Buddhisumus ist es nicht wichtig, dass wir anderen verändern. Es ist viel wichtiger, dass wir uns selbst verändern. Um es kurz zu sagen, wenn wir unsere Hinsicht objektiv und bewusst wahrnehmen können, wird die Welt mit anderen drastisch verändert. Natürlich gibt es keine sofrtige Wirkung mit solchen Sicht der buddhitischen Gewaltlosigkeit. Und nicht nur ich selbst, sondern auch anderen nicht solche Idee bemerkt, muss man wahrscheinlich ewig mit sich selbst kämpfen, weil man keine Hoffnung sieht. Es kann wirklich ewiger länger Weg sein.
 Villt wenn alle Menschen Gnadenmeditation, jeden Tag üben, dann kann es etwas gutes bringen sein...