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2015年10月27日火曜日

3人の禅僧  3 Zen Mönche

 今回の一時帰国中の目的は、仕事に向き合う姿勢のリセットです。滞在中、3人の禅僧のお話を間近に聞くことができました。うち二人は曹洞宗の禅僧の方々です。その著書や、珍しい経歴で日本では有名なお二人です。彼らの一般向けの対談会で、楽しくお話を聞かせていただきました。彼らも、坐禅中に起こる思考の流れについて色々と試行錯誤しつつ座り込んでいるのだなあ、と思いました。しかし終には、言葉で持って言葉を遣る、ということでしょうか。彼らの対談本も拝見しました。現在の瞑想ブームについて、少々辛口で書かれている部分もありますが、それも納得がゆくところです。しかし、ヴィパッサナーやヨーガから日常生活へのポジティヴな変化を体験し、よりよく生きていくことができるのなら、それも方便として私は良いと思います。ただし、そこに執着し、それが生活の足かせになってしまっては本末転倒ですが。若い女性たちのヨガブームも、ヨガが義務となってしまったら意味がないですからね。仕事帰りに週二日は必ずヨガに行くことが、他のことへのストレスを生み出していたり…  そして、3人目は不二般若道場の山本老師です。震災直後、実家にすぐ帰るのが怖く、ここで1週間の摂心を受けてから仙台に向かいました。1週間坐禅しっぱなしの後の私の心は、なぜか晴れ晴れしていました。あの時の、余計なものが最小限まで落ちきってクリアに考えたり見ることができた感覚が今でも忘れられません。そして、老師の冬の晴天のようなカラッとした人柄がとても印象に残っていました。あれから4年。久しぶりに訪れた道場では、私のことを覚えてくださっていた参禅者のみなさんがいて、とても嬉しかったです。そして老師のカラッとした人柄もそのままでした。不謹慎ですが、世界一おいしい精進料理もそのままでした… 今回はわずか4日間の摂心です。時差ぼけで、帰国後まる2日間はほとんど眠れず、体もむくんで、生まれて初めて足を組み続けることがつらかったです。けれど、それでも続けるといつの間にかそれも一つの身体の流れる変化として気にならなくなってゆきます。今回は、山本老師はもちろんのこと、参禅者の先輩方のお話がとても心に残るものが多く、仕事の方向性を少し見失っていた私への良い刺激となりました。私も日々精進していこうと思います。

野球ドラフト

 ドイツは今秋休みの後半折り返しを過ぎたところです。前半は日本に一時帰国していました。帰国中に恒例の野球のドラフト会議をテレビで見ました。今年は我が仙台市から何人か選出されており、嬉しい限りです。新しい野球人生を歩み始める皆さんを心から応援します。  ドラフトの翌朝、近所のまわりをジョギングする子供の姿が、いつもよりたくさん目につきました。イガグリ頭の野球少年達です。きっとみんな、ドラフトで選出された選手達の子供の頃の並大抵ではない努力話を聞いて触発されたのでしょう。思わず「がんばれよ〜!」と声をかけてしましました。照れ笑いする子供の顔はとっても素敵でした。野球賭博問題も噴出していますが、新人選手達には子供の夢を背負うプロとしての自覚をもって、奢ることなく努力を続けてほしいとおもいます。

2015年10月15日木曜日

難民問題2

 うちの近所の体育館が難民用の一時避難場所に使われることになりました。いたって静かで、いつ移動してきたのかもわからないくらいでした。行政側はてんやわんやらしいです。いつか登録したヘルパーの話もまったく音沙汰なしです。私たちが冬季練習場場として使っている体育館も難民用になる可能性大だそうです。  さて、日本では某漫画家のかたの難民に対する風刺画が世界的な問題になっているようですが… 私もちょっと見てみました。その方のコメントも少し見ました。よく知らないことを誹謗中傷的にネットに書き込むのはやめたほうがいいですね。ドイツは難民に対して一人当たり17万円の援助をするって、現金じゃないですよ。健康保険とか、就労に至るまでの語学等の研修費とか一切合切の、現金以外の援助も含めた金額です。  日本の報道や一般のコメントをみると、難民全てが無教養で働いたこともない、プリミティブな人たちのように書いているかたもいますが、ちょっと違いますよ。現地で大学も卒業し、立派な職業人として働いていた人たちもたくさんいます。「運び屋に払う金があるんだったら、難民じゃないだろ」って言っている人もいますが、もっと調べましょうよ。例えば日本人が国を追われて不本意ながら難民になったとして、おそらく多くの日本人が20万円くらい払ってでも国外に逃げようとしませんか?

2015年10月14日水曜日

ラグビー ノーパスポート主義

 今日は久しぶりにスポーツの話題。表題の記事を某新聞でご覧になった方もいらっしゃるとおもいます。ラグビー日本代表の活躍は本当に嬉しい限りです。その顔ぶれが国際色豊かだなと、気になっていた矢先の記事でした。スポーツに国境はない。スポーツを広めるためには、本人重視であって国籍は関係ない。ごもっともです!(もちろんスポーツを広めることが最大目的です。チームの勝利は別として。)ドイツの野球界に長く身をおきますが、このラグビーの精神をドイツ野球界も見習うべきです。私自身、外国人として登録し何年もプレーしましたが、外国人出場制限があるためにレギュラー争いは更に熾烈でした。この規則の根拠の理由がわからないのでもないのですが(お金のあるチームは外国から投手陣を買ってくる)、この野球後進国ドイツにおいて、この規則に抵触できるチームのほうがかなりの少数派です。ましてや少年野球ではありえません… この外国人ルールで、試合になかなか出れずに悲しそうな顔をしてベンチに座っている子供をたくさん見てきました。声を大にして言います。ドイツ少年野球界もラグビーノーパスパート主義に見習え!!

2015年10月7日水曜日

三重 高校同級生殺害事件

 「友人を救いたかった…」  加害者の男子生徒の言葉を聞いて、人間はここまで来てしまったか… という感じがします。この事件は、どこかで見聞した映画や漫画のストーリーを彷彿させるような気がします。けれど、映画ほどドラマチックではなく、登場人物に共感や嫌悪を覚えるまではいかず、どこか中途半端かつサラリとした感覚を覚えます。なんなんだろうなあ…   年少者による殺人事件が起こると決まって「命の大切さを伝えなければ」という世論が勃発します。方向的には間違っていないと思うのですが、まったく良い結果が出ていないのが現状です。どうしてでしょう。  友人を救うという行為は素晴らしいことです。しかし、その友人が死んでしまっては、その友人が本当に「救われた」と言えるのでしょうか。浅はかだよ、と多くの人が思っているのではないでしょうか。以前にも年少者による殺人事件について、ブログで書いたことがあると思うのですが(自分で見つけられませんw)、人物の等価物化が現代社会でとても進んでいます。これは、言葉や価値観がそのまま実存するように思い込んでしまうことです。もちろん万人共通のそのような実存基準などあるわけがありません。それなのに、各人が共通項を求めるためにいろんな歪みが出てくる。幸せ、つらい、痛い、大丈夫、ちょっと無理、きつい、かわいい、かっこいい、などなどちょっとした形容詞を例として考えてみると分かりやすいかもしれません。この男子生徒の場合、「救う」という定義が多くの人間の考えるものと大きくずれていたのは間違いないでしょう。同じように「救われたあとの状態」の定義も同じです。一般に、救われたというと、命が続いたとか、危機を乗り越えた、という意味が含まれる気がします。こんなにつらいのなら死んだほうがましだ、という状況においてでさえ、そこには死後の世界、いわゆるあの世や天国へとなんらかの形で精神の一部が続いていく希望のようなものがあります。果たして、この二人の高校生の間にはそのような感覚はあったのでしょうか。死んだ女子高生には、死後の世界への憧憬があったかもしれません… もしそうだとしたら、その彼女の憧憬をこの男子高校生は100パーセント共感していたとは思えないのです。死後の世界を共感できるもの同士が殺し合い(自殺)をするという事件が、過去に狂信的な新興宗教団体でありました。しかし、そのような方向に行くわけでもない。共感していたら、「ぱっと願いを叶えてあげる」という立場にはすぐにいたらない気がします。なぜなら、願いが叶ったあとのことは誰もわからない世界ですから、本当に自分が願いを叶えてあげられるかどうかもわからない、わけです。  この事件から、私がとても中途半端かつサラリとした感覚を覚えてしまうのは、「死にたい」という願いが、まるで自動販売機に硬貨を入れればすぐに希望の缶ジュースが出てくるような感覚で叶えられてしまうことにあると思います。同じように健康な若者には「生を授かる」ということも簡単になってしまっている。最初に戻りますが、「命の大切さ」がなぜ伝わらないのか。その理由は、自身の命を大切にされたことがないから。自身が唯一無二であることから遠ざかりたがっているから。に尽きると思います。唯一無二の存在であることを遠ざける、というのは、万人共通であるように思えている外に見える形だけを追い求めているから、と言えましょうか。  「自分のことが一番大切なのだから、他人もきっと同じように自身が大切。」と気づいた、という有名なお話が勝鬘経にあります。ここがポイントのような気がします。自分が一番大切と思えること、それが他の命の大切さへの共感へつながると気がします。