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2017年9月5日火曜日

新学期と自殺

 タイトルのようなニュースをここ数日よく耳にします。そういえば、私の親友も新学期が始まってまもなく自殺したな、とかれこれ30年近く前のことを思い出します。30年たっても子供をとりまく心の環境はあまり変化がないのでしょうか。悪くなっているといったほうがいいかもしれませんね。
 後追い自殺まで考えたあの頃には想像ができませんでしたが、30年たった今、とても元気にしぶとく生きています。親しい友人や家族を失ったみなさん、気休めではありません。毎日少しづつ色んなことが変化していきます。今の状態はずっと続きません。生きていればいつか良いことはあるなんて思い込むのはやめましょう。生きていれば色んなことがあって当たり前と思って生活したほうが、小さな変化に喜びを感じることができます。
 
 

2017年9月2日土曜日

今を生きろ!

 この半年、ブログを書く欲求が全くありませんでした。今年前半は色々な場面で個人情報操作やら監視やらのテーマを耳にすることがあり、こうやってブログを発信する意味を考えているうちに、なんだか書く気が失せてしまいました。ブラグに限らず、普段からほとんどSNSを利用しない私ですが、なくても困ることは何もない…というのが結論です。
 そうこした半年間に、仕事で色々な人との出会いがあり、座禅会や経典を読む会があり、イベントもあり、やっぱり書いた方がいいのかな、という気になっています。もしも、読んでくれている方がいればぜひ感想などお聞かせください。一緒に色々なことを考えていきましょう。

 8月、日本からの一時帰国からドイツに戻ってすぐに、末期癌だった女性が亡くなりました。彼女とは痛みと向き合う瞑想法や、坐禅、歩く禅行を一緒に丹念に繰り返していました。最後に彼女から話をしたいと連絡があったのが一時帰国の当日。ならば帰ったらすぐにということで、私は予約を入れそのまま日本に発ちました。その最後の予約が叶えられるままの最期でした。話を聞いてあげたかった。ただただ悔しいです。 
 30代半ばで、2歳の子供と別れなければならなかった彼女の気持ちは、察するに足りません。共通の友人達はいかに彼女が「自己の死」を受け入れられずにあがいているか、を語っていましたが、私はそうは思いません。彼女はとうにそれを受け入れていたのではないかと思うのです。キリスト教徒の彼女が火葬を望んでいたということは、その印のひとつに思えます。
 彼女が初めて私のところに来て話してくれたこと、「私がいなくなった後に、息子は私のことをどこまで覚えていてくれるだろうか。」
 とても難しい質問です。私は正直にわからないと答えました。けれど、坐禅の練習のように「今、ここ」にいつも集中して、100パーセント息子と常に向かい合うことは、間違いなく彼の心のどこかに残ると思う、と私の考えを伝えました。100パーセント一緒に朝ごはんを食べる。オレンジジュースひとつ、パンひとつを一緒に味わう。ママと呼ばれたら、100パーセント全身全霊で返事をする。100パーセント一緒に手をつなぐ。100パーセント一緒に買い物に行く。そんなことです。私が言う100パーセントとは、その瞬間に、未来や過去は入ってきませんし、考えも及びません。ただこの瞬間だけを完全に100パーセント受け入れるということです。子供を手をつないでいる時は、ただその手のぬくもりを感じ、子供が語りかける声に耳をすます、一緒に歩くことに集中する、そんなことです。洗濯物ひとつたたむ時も、100パーセントそれに集中する。化学療法も100パーセント受け入れ集中する… 彼女ははじめきょとんとしていましたが、1週間後会った時に、それが自分自身にとてもよい新しい感覚を与えてくれていて、一人でいる時もそうするようにしていると笑顔で話してくれたのが印象的でした。
 そんな彼女だからこそ、100パーセント病気と最期まで戦う姿を息子に見せようとしたのではないかと思うのです。諦めない母、最後までがんばる母の姿を…
 
 彼女の葬儀はごくごく身近な親族内だけで行われたようです。
 彼女の死から数日後、親族から喪中通知の手紙が届きました。封をあけてカードを取り出して一瞬息を呑みました。そこには満開のひまわりの写真。そしてその真ん中に「今を生きろ!」と一言。私の頭の中は一瞬空になり、次の瞬間なんともいえない優しい、暖かい思いでいっぱいになりました。彼女は最後の瞬間まで100パーセント生きたんだと、なぜか確信がもてたのです。カードを開くと美しい彼女の顔写真。優しい眼差しに微笑み返さずにはいられませんでした。
 ありがとうKさん。いつもあなたのことを側に感じています…