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2016年10月18日火曜日

夫婦で家接心 3 Tage Intensive Meditation mit meinem Mann ; )

 ここ数ヶ月、仕事で一杯一杯のダンナがとうとう帯状疱疹を患ってしまいました。幸い、早期発見と薬の投与が効いて激痛はなし。毎日パソコンとにらめっこのダンナに私のイライラも限界に達しました。
 主人は普段、私が坐禅やマインドフルネス指導をしているにも関わらず、ダンナは一度として参加したことがありません。煙たがっているそぶりを見せる割には、私に来客があると、きちんとその時間帯は沈黙を守り、仕事に敬意を払ってくれています。半信半疑、怖いもの見たさ、新しいことへ尻込み、といった感じでした。そこで、先週末から秋休みに入ったのを待っていましたとばかりに、子供をおばあちゃんに預けて3日間の家接心を提案。「もう、あなたを救う道はこれしかない!」と、どこぞの新興宗教の勧誘並みの真剣さで訴えました。w すると、ダンナは意外にもすんなりとOK。ありゃりゃ、どんな反論が来るかと構えていたのが馬鹿馬鹿しくなりました。すんなり陥落するほど、ストレスでもうどうにもならなくなっていたというのが正解でしょう。
 まずは、心理学者、脳生理学者らの瞑想に関する学術報告ビデオを見せウォームアップ。そのあとは、通常の坐禅会参加者と同じように、テキストや口頭で坐禅とマインドフルネス瞑想について解説。そして開始です。
 1時間を1セッションとして、3日間で15セッションを計画しました。その間、森での1〜2.5時間かけた経行(歩く禅)を3回含みます。もちろん、食事中と質問以外は沈黙を保ちます。
 1回目のセッションは、ダンナは5分で挫折。坐禅中、足が痛くて動き始めたダンナは、隣で座っている私に恐る恐る近寄ります。私が起きているかどうかチェックのために、まずは目の前で手を振るダンナ。w 反応しない私の目が開いているかどうか、下から覗き込む。4、5秒考えた末に、とうとう私の肩をゆらして一言「ねえ、起きてる?」w。とうとう、私も反応することに決め、目をはっきりと開けました。「今寝てた?足が痛いんだけど。」あまりの朴訥な発言に笑いをこらえきれず大笑い。「今までいろんな人と一緒に座ってきたけど、肩を揺すられて助けを求められたのは、あんたが初めてだわ〜」と、こんな感じでどうなることやら…と始めまりました。
 しかし、笑える1回目が嘘のように、ダンナは毎回真剣に取り組んでくれました。足の痛みに耐えられず、椅子坐禅に2回ほど変えましたが、途中坐禅に関する記事を読むうちに「やっぱり、ちゃんと座れるようになった方がいいと思う。」と、自分から座布団に座るようになりました。そして、最後のセッション時には25分間きっちりと座れるようになっていました。
 毎回、素直にトライしてゆくダンナと一緒に、私ももちろん真剣に座りました。特に、慈悲の瞑想では、忙しいダンナに対してとげとげしい言葉を発したりイライラする自分を猛省。この家接心が私に取っても大きな収穫となったことは言うまでもありません…
 終了後、「よくがんばったよね、お疲れ様。」とお互いにねぎらい、ダンナからの一言、「これから毎日座ってみようかな…」ストレス軽減だけではなく、それに伴う家族不穏にも、坐禅やマインドフルネス瞑想が役立つことを再認識しました。
 

2016年10月9日日曜日

余命宣告と「希望」について。

 座禅会に参加されている方から、日本の緩和医療やホスピスの状況を伺いました。患者の方がどの病院にお世話になるか、その決め手となるのは「希望を持たせてくれるか」どうかだそうです。とても考えさせられるテーマです。
 余命宣告をされた時、家族や周りの人間は「いなくなった将来」について刻々と思いをめぐらせる。その一方、患者本人は将来ではなく、残された時間を「どうすごせばよいのか」恐怖とやりきれぬ思いでとまどう。やり残した過去について少しでもいいから精算しておきたい。あるいは、どうしてもやりたかったことをやってみたい。と、TO DOリストが山のように頭の中に浮かんでは消えているかもしれません。そして、そのリストの大半は家族のリストとは違うものでしょう。
 「いなくなった将来」は、患者さん本人にとって、家族と比べればあまり重要ではないかもしれない。もしかしたら、そんなことはどうでもいいのかもしれない…  そんな時、「今、ここ」に生きている瞬間を肯定的に共有してくれる人間がいたら、どんなに心強いかと思うのです。それが、「希望を持たせてくれる」ということではないかな、と思いました。患者さん自身だけではなく、家族や知人も「今、ここ」に集中して一緒に生き抜く。どんな小さなことでも、「そんなの今更…」とか、「もっと違うことに時間を使った方がいいのに」と、否定しない。余命宣告をされた時点で、その方の人生が終わったわけではありません。毎朝の挨拶から、食事中の会話、テレビを見ながら一緒に笑うこと、新聞の一説を一緒に真剣に考えること、ペットと本気で遊ぶこと、風呂の温かさをしみじみ味わうこと、そんななんでもない日常の瞬間を一緒に本気で過ごすこと、それが何よりの「希望」につながるでしょう。

 生死事大 無常迅速 各宜覚醒 真勿放逸 「六祖壇経」

 

2016年10月5日水曜日

一養子親として有名俳優カップルの離婚劇から思うこと。

 某超有名アメリカ人俳優カップルの離婚…カップル自身のことよりも、彼らの片手では数えきれぬ子供達がかわいそう。と、思った方もたくさんいるのではないでしょうか。彼らに限らず、他にもいますよね。映画監督と離婚した某ポップスターや、サイエントロジーの広告塔の彼も前妻との間には養子がいました。彼らの離婚劇には、眉をひそめる養子親が世界中にたくさんいるでしょう。だって、その後は必ず「やっぱり養子はかわいそう。親のエゴで子供が取引された。」というイメージが必ず世間にあふれるから。別に関係ないといえば関係ないのだけれど、これらのゴシップニュースを、養子自身が将来自分で認識するようになった時、どんな感情を抱くのだろう。と、ふと考えます。
 じゃあ、離婚をする予定のない人間に養子縁組をしたらどうだろう?南アフリカ出身の某女優は、シングルで養子縁組してますね。私はエンタメニュースには興味ありません。そんな私でもニュースを目にするとすれば、離婚劇等の大見出しの時くらい。なので、彼女がいまどんな生活をしているのか知りません。ドイツではシングルに養子縁組はできないので、どんな審査を通って彼女が養子縁組をできたのか興味はあります。
 さて、何が言いたいのか。結婚していれば、夫婦は確実に固く結ばれているから子供も幸せなんていうことは幻想だし、シングルだから子供は幸せになれないというのも幻想だと思います。さらに、このことは養子だけにあてはまることではなくて、実子についても同じこと。子供に限らず親にも当てはまりますが、「何か自身から欠けてしまった」と感じたその後に、その穴埋めの方向が、自身を傷つけることなく健全であることを祈るのみです。