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2016年10月9日日曜日

余命宣告と「希望」について。

 座禅会に参加されている方から、日本の緩和医療やホスピスの状況を伺いました。患者の方がどの病院にお世話になるか、その決め手となるのは「希望を持たせてくれるか」どうかだそうです。とても考えさせられるテーマです。
 余命宣告をされた時、家族や周りの人間は「いなくなった将来」について刻々と思いをめぐらせる。その一方、患者本人は将来ではなく、残された時間を「どうすごせばよいのか」恐怖とやりきれぬ思いでとまどう。やり残した過去について少しでもいいから精算しておきたい。あるいは、どうしてもやりたかったことをやってみたい。と、TO DOリストが山のように頭の中に浮かんでは消えているかもしれません。そして、そのリストの大半は家族のリストとは違うものでしょう。
 「いなくなった将来」は、患者さん本人にとって、家族と比べればあまり重要ではないかもしれない。もしかしたら、そんなことはどうでもいいのかもしれない…  そんな時、「今、ここ」に生きている瞬間を肯定的に共有してくれる人間がいたら、どんなに心強いかと思うのです。それが、「希望を持たせてくれる」ということではないかな、と思いました。患者さん自身だけではなく、家族や知人も「今、ここ」に集中して一緒に生き抜く。どんな小さなことでも、「そんなの今更…」とか、「もっと違うことに時間を使った方がいいのに」と、否定しない。余命宣告をされた時点で、その方の人生が終わったわけではありません。毎朝の挨拶から、食事中の会話、テレビを見ながら一緒に笑うこと、新聞の一説を一緒に真剣に考えること、ペットと本気で遊ぶこと、風呂の温かさをしみじみ味わうこと、そんななんでもない日常の瞬間を一緒に本気で過ごすこと、それが何よりの「希望」につながるでしょう。

 生死事大 無常迅速 各宜覚醒 真勿放逸 「六祖壇経」

 

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