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2016年2月25日木曜日

爆弾と「死にたい」

 世界のテロ事件への関心は我々大人だけではなく、小さな子供達の間にももちろん広がっています。もちろん、子供達へは「刺激的」な部分だけが、子供用に脚色されて伝わってゆきます。
 先日、娘の担任の先生からめずらしく電話がかかってきました。話を聞いてみると、授業中に娘がトイレに行きたいというので行かせた。戻ってきてみると泣いた後で目が腫れている。どうしたの?と聞くと、なんでもないと答えた。休み時間になって、一人の時に再度尋ねてみると、「言わないほうがいい。」と娘が答えたところ、先生がさらにねばってたずねると「ハイチに爆弾が落ちて、ハイチのお父さんお母さんが死ぬかもしれない。」とのこと。なぜそう思うのか再度たずねると、「クラスのみんなが爆弾のことを心配している。」と答えたそうです。
 この件についてのポイントは二つ。1爆弾に対する恐怖 2ハイチの両親について話すことへの躊躇 でしょうか。
 我が家でテロや爆弾が子供との会話で話題にのぼったことは一度もありません。テレビは週に多くて2、3時間程度、子供番組を選んで見せています。私自身は子供が就寝した後のニュース番組をみる程度です。娘が自分でテロに対する知識を蓄えたとは思えません。いらぬ恐怖を蓄える前に、テロと爆弾については私の口からわかりやすく伝えました。
 そして2番目の件については特別に対処はしていません。家の中ではいつもオープンに実の両親について話したい時は話させているし、否定も肯定もせずに、うんうんと聞いています。ただ、以前ブログにも書きましたが、娘の「家族意識」に対する心無い子供達の反応に対して、家族に関する発言に消極的になってきたのかもしれません。
 この爆弾話からしばらくたって、今度は「死にたい」発言が飛び出してきました。ほんの些細なこと(食べたガムをベットの足にくっつけていた)でパパから怒られた後のことでした。この発言にはちょっと敏感に反応した自分に気づきました。私が高校生の頃、親友を自殺でなくした際、彼女は死ぬ数週間前にこの言葉を時々漏らしていました。その思い出がもちろんすぐに頭によぎりました。どう反応するべきか悩む自分にももちろん気づき、子供が幸い「まずいこと言っちゃった」と感じていることにも気づき、とりあえず坐禅開始の合図のように3回深呼吸をしました…そして、これは簡単に説明しちゃいけないと思い、とりあえず1時間ほどどう説明するべきが考え、話を切り出しました…

2016年2月23日火曜日

よく言った、ローマ法皇。

 ローマ法皇から話題の赤っ恥暴言おっさんへの発言ですが、よく言ったと思います。宗教指導者として、彼がキリスト教の名前を語るのをもう我慢できなかったんでしょうね。壁じゃなくて橋をかけることのほうが大事。これって宗教なんぞ関係なく、人間関係における基礎ですよね。そして、法皇への反発発言がこれまたもう糸の切れた凧のごとく飛んでいっちゃてるので、もう反応するのも面倒くさくなりました。今度、知人のアメリカ人達にどう思っているのか、ぶっちゃけ聞いてみよう…

2016年2月18日木曜日

ネットが落ちて学生気分

 男性国会議員の育児休暇取得がんばれと思っていた矢先にこれですものね。なんだかなあ…パファーパンスだったと思われてもしょうがない。辞職後は、きっちり育児やってくださいよ !

 ここ数日、家ネット環境が完全に落ちていました。どこか発展途上国に旅行に行く時は、ネットのない環境はどうってことなくすんなり溶けこめるのですが、自宅で繋がらないというのはとても久しぶりで、はじめは不便を感じました。しかし、「大学時代はネットなかったよなー」「とにかくなんでも電話、ちょっとよくてポケベルなんてあったよなー」「意味なく誰かの家に行ってずっと無駄話してたよなー」「なんでも図書館で調べたよなー」「卒業後Niftyメイルが繋がった時の興奮ったらなかったよなー」と、学生時代のころを思い出していました。ネットがなかった時代、学生の私は夜の空き時間を何をしていたか?テレビ、レンタルビデオやCD、読書、長電話、飲み物一杯でどの店だろうと友達と居続ける、こんな感じでした。一人の時はレンタルビデオ鑑賞と読書にさいた時間が多かった気がします。今考えれば、私の雑学知識がたっぷり蓄えられた時期でした。それに比べて今の生活は…自ら興味を探しだすことがとても下手になってしまった気がします。
 結局ネットが落ちている間の夜はここぞとばかりに、読みたかった本を2冊一気に読破しました。なんだか、とても懐かしい感覚を覚えました…

2016年2月12日金曜日

Bald 5 Jahre vorbei... 東北大震災から5年まであと1ヶ月

 仙台の地元新聞「河北新報」は月命日の毎月11日には、震災に関連するアーカイブ記事が全て読めます。当時のことを忘れないように、時々見ています。

Bald werden 5 Jahre nach dem Natur Katastrophe in meiner Heimat. Hier ist die Link von einer Lokale Zeitung. Man kann viele Archive anschauen. Auch in Englisch ; )

http://kahoku-archive.shinrokuden.irides.tohoku.ac.jp/kahokuweb/?0


2016年2月10日水曜日

難民と野球計画…挫折

 かれこれ2ヶ月以上、難民に野球を教えるというプロジェクト実行を試みましたが、残念ながらほぼ挫折状態。あきらめかけています。
 理由は二つ。クラブ会員になるための資金援助が市から未だにおりないこと。市はてんやわんやの忙しさで、スポーツなど二の次、三の次、それ以下という状況。そして二つ目は宗教上の理由からくる難問。このプロジェクトにあたって、対象を女性にしました。というのも、男性はサッカークラブからの同じようなオファーがあり、すでに週に二日プレーする機会があるためです。彼女たちの希望で「女性だけ」という条件で体育館で始める予定でした。しかし、話してみると「男性に見られることもダメ」とのこと。これはちょっと難しい。公共の体育館を他のスポーツクラブと共有しているため、男性がたまたま通りかかったり、ちょっと声をかけあったりなどということは日常茶飯事。気は進まないけれど、ドアの鍵をしめてどうにか避けることはできるかもしれない…と思いつつ、資金援助をまつうちにそろそろ外での練習時期になってきました。冬季中は、我々正規チームが体育館を使用していない時間帯をねらってのプロジェクトを考えていました。しかしさすがに、野外の野球場をドームのように覆いつくすことはできません。更に、夏季からは女子チームに引き継ぐつもりでしたが、女子チームのコーチは男性。私は少年野球のコーチであり、男の子たち、更にヘルプのお父さん方が当然のごとくいつも一緒。
 なんだかなあ…考え込んでいます。

2016年2月2日火曜日

言葉が素通り

 今日は鈴木俊隆のエッセイを読みながら二人のお母さん方(ドイツ人と日本人)と坐禅会がはじまりました。テーマは「子供とコミュニケーション」。ここ最近、よかれと思って言っているだけど、結局余計な言葉が混じって子供を怒っていたり、或いはどうせ右から左に聞き流していることを知りつつ同じ調子でこれまた叱っていたり。そんなことが続きました。参加者のお二人もまさに実際に経験していること。これはまさに、言葉が素通りしているのです。もう、怒ろうが叱ろうが言葉が子供の心に命中しない。だから、何度も同じことの繰り返し。あーあ、だんだんむなしくなってきます。今日はこれをテーマに坐りながら、客観的な事態の把握を試みました。
 そして気がついたこと。全くもって「今、ここ」にない心で子供に話しかけていました。過去のことをただ思い出して怒ったり、未来にまだ起こっていない悪いことへの忠告だったり。更に、あってはいけないことですが、「相手に話す」ということに集中していませんでした。例えば、茶碗を洗いながら叱っていたり、ご飯を食べながらぶつぶつ注意したり。
 二つのことを「心から」集中してできる人間はほとんどいないでしょう。何かをしながら相手に大切なことは伝わりません。手を止め、相手の目を見て話す。そして、相手の声を聞く。こんな単純なことをすっかり忘れていました。「今、ここ」に集中する。坐禅で練習していることをそのまま活かせばよいのですよね。反省。