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2015年9月29日火曜日

スマホ

 座禅会で最近よくきく話題が、子どものスマホ中毒。これは国境を越えた問題ですね。スマホを取り上げたばかりに、子どもによる母殺しまで起きていますね。私も他人事のように、とりあげちゃえばいいのでは?連絡用なら、学校から帰って来たら返して貰えば?と言ってしまうのですが、渦中の親子間ではそんなこととても言えない、と言われる方がほとんどです。正直に申し上げると、その誰もが子どもに遠慮している親御さんばかりに感じます…  私の知人に、携帯を絶対にもたない主義の人間がいます。彼は仕事をバリバリにこなす一流の銀行マン。プライベートでは私の所属する野球協会を統率する責任者です。先日、彼の2週間の休暇中にある問題が起きました。彼の助言を求めたく、連絡をしたくとも連絡先がわかりません。バカンス先のホテルにまで電話をしようと思いませんが、携帯だったら…と思ってしまうところが、私も携帯に飼いならされてしまった現代人です。結局、2週間後に彼が戻ってきた頃には、問題が小康状態になり、あたふたした2週間前とは違った報告を彼にすることができました。その時、考えたことは、「携帯をもたないって座禅に近いものがあるよな…」ということ。連絡を受けても、遠方にいる彼は結局何もすることはできません。何かしらアドバイスはできるかもしれませんが、結局2週間の間、脳裏の隅に問題があることを気にしつつ過ごすことになるでしょう。私のほうは、2週間経ってみれば、連絡なしでもどうにかなっていることに気がつきました。「いま、ここ」にないことを、気にしつつ過ごすことほど神経をすり減らすことはありません。いわゆる未来への心配、過去への後悔が良い例です。携帯によって簡単に気持ちの吐き出しができる現在、携帯によるコミュニケーションが必要のない神経のすり減らしへと直結していることを改めて感じました。結局、彼は2週間のバカンスを思い切り楽しみ、起こった問題を帰って来てから1時間の濃いミーティングをもって仲間たちと解決するにいたりました。問題を抱えた2週間と1時間。どちらが精神的に健康か明らかです。  携帯によるコミュニケーションのほとんどは、「いま、ここ」にありません。特にSMSやメイルなどは、送った瞬間に自分の気持ちの吐き出しが相手に届いた気になりますが、それは勘違いです。返事がすぐにこないと「無視された」など否定的に考えてしまう人も多いとおもいます。しかし実際は、頭の中で勝手に相手とのコミュニケーションが一人走りしているだけです。落ち込みがちな方、うつっぽい方には、なるべくメイルではなく直接お話しするようにしたほうがいいですよと申し上げています。この返事を待つ間に、気持ちがどんどん悪い方に引き込まれてしまう可能性が大ですから。

2015年9月23日水曜日

小学校の宗教の授業

 ドイツの学校には宗教の授業があります。ほとんどの学校がキリスト教の授業ですが、最近ではイスラム教の授業なんかもあるらしいです。もちろん選択できます。授業を受けないことも可能です。  私が住む田舎の小学校には外国人自体が少ないので、選択肢は他にありません。やはり内容が気になるので、小学校に上がると同時に先生に聞いてみたところ、内容は宗教じゃなくてほとんど道徳だからとのこと。そんなこんなで1、2年生のころは授業内容もあまり気にとめることもなかったのですが、最近娘がうかない顔をしているので聞いてみたところ、授業がさっぱりわからないと言います。3年生になってから、カトリックとプロテスタントの2グループに授業が分かれました。この時にちょっと疑問に思ったのは確かです。道徳に宗派など関係ないはず…とりあえず様子をみていたところでした。娘が言うには、難しすぎて先生が言っていることがわからない。わからない言葉が多すぎる、他の子供達は手をあげてちゃんと答えられるのに、私はチンプンカンプンとのこと。よくよく話を聞いてみると、確かに時々教会に通ったりしない限り聞かない専門用語がずらり。うちの旦那は信仰心のほとんどないプロテスタントです。ゆえに、教会には結婚式や洗礼式なんかで招待されない限り、出入りすることはほとんどありません。娘がわからないのも無理ありません…なんだかかわいそうになると同時に、ちょっと真剣に考えてしまいました。  先日、教会税について書きましたが、ドイツ人にとって教会に所属するのはごくごく自然のことです。日本人が子どもの頃、お宮参りや七五三に行くように、いつのまにか親によっていづれかの宗派に所属し、大人になってから自分の意思で離脱したりする人間もいます。離脱するのは、自分自身で宗教について比較検討できる能力が備わった末の決断、と私は考えています。そのためには比較要素をきちんと理解しなければならない。宗教理解は他人理解にもつながります。そんな理由で、娘を授業に参加させていたのです。しかし、親がフォローできない授業を受けさせ、そこでおかしな劣等感を感じさせる必要はあるのか?道徳という観点が抜け、宗派の授業になるのは私も本意ではありません。ならば、私がきちんと説明できることを家で教えてあげるほうがいいのではないか?そんなことまで考えてしまいました。しかし、まだ8歳の子どもからしてみれば、みんなと一緒の授業を受けてナンボの世界。しばらく様子をみることにしました…

2015年9月22日火曜日

曇りのない心で

 「座禅やっても何も感じないんだよね」「座禅やってもなんか変わらないんだよね」これ、よく聞く言葉です。前者はスポーツをよくやっている人、以前何かの中毒だった人から。後者は、ちょっとうつ状態の人からよく聞く言葉です。座禅に不思議はおこりません。宇宙から体全身にエネルギーが舞い降りてくるわけでもないし、突然光がさして昨日と違う私になるわけでもありません。外に外に「今とは違う自分」を求めても、そこに評価を下す根本が同じであれば、常に不満足で終わってしまうでしょう。だったら、いつも同じ評価を下さずにはいられない、自分の思考のクセを変える方がてっとりばやく変化を感じることができるかもしれません。とはいえ、これが対人関係への評価となると難しいです。例えば夫婦喧嘩をしたときとか!笑 「大乗起信論」に説かれている五つの鏡のような曇りのない心で事象を映せることを目指したいものです…

2015年9月19日土曜日

教会税と難民

 ドイツには教会税なるものがあります。この税金はその名の通り、キリスト教教会の活動に割り当てられます。宗教に関して税金があること自体、日本人には全く想像もつかないことです。もちろん、ドイツ人全てが払っているわけではありません。キリスト教徒ではない私はもちろん払っていません。教会に賛同できない人間は払わなくても構いません。そのさい、教会から離脱することになります。教会税の仕組みや人々の意見となると、長くなるので今日はやめておきます…  さて、昨日の座禅会の参加者のドイツ人女性と話をしていたところ、教会税の話になりました。彼女は、「私はキリスト教とは無縁、興味もない。」と普段から言い切っていますが、この教会税はまだ払い続けているとのこと。不思議に思ってその理由を聞くと、「XXXに住んでいるシスターのXXXさんは、私が今まで出会った誰よりも困った人間を助けている。彼女と話すことで癒される人間は数知れない。私は彼女の生活を援助するために税金を払っていると考えている。」とのことでした。  論理的に考えたら、その彼女の教会に直接寄付した方がはやいかもしれません。それは彼女もわかっているはずです。話終わった後ウィンクをする彼女は、とても優しい顔をしていました。  先日は難民の話題となりました。多くの難民が教会系の団体から多くの支援を受けています。このドイツ人女性の善意の一部もそこにまわっているわけです… もちろん彼女は難民のことは心配していないそうです。  つい先ほどニュースで聞きましたが、難民全てに無料で健康保険が保証されるそうです。すごいなあ…  

2015年9月17日木曜日

難民問題についての温度差

日本でも難民問題について毎日取り上げられています。日本の皆さんには伝わっていないと思うのですが、ここドイツではほとんどの人間が「大げさに心配していない」のです。ネット上でいかにドイツの将来がまずいことになるか的な悲観的コメントをよく見かけますが、多くのドイツ人はどこ吹く風でいたってクールです。生死がかかってるんだから助けるのは当然、あとはどうにかなるよ…という意見が私の周りでもほとんどです。

2015年9月15日火曜日

経行 Gehmeditation

 先日、1時間ほど集中して経行をしました。それもカタツムリの赤ちゃんの速さで。裸足で2呼吸につき一歩。まさにスローモーションの世界ですが、これほど自分の足の裏の構造が手に取るように「見えた」のははじめてでした。おまけに自分の足の裏がこんなに柔らかく感じたのも生まれてはじめてで、いつの間にか1時間が過ぎていました。今更ですが、人間って自分の体のことを知っていそうで、実は全然知らないかも…と実感しました。

2015年9月9日水曜日

子供の表現力低下と英語…いじめ対策

 テレビやラジオ番組の中で、時々子供へのインタビューを聞くことがあります。この夏日本でももちろん同じように子供へのインタビューとその答え多く聞きましたが、なぜかしっくりこない感覚を覚えることが多々ありました。何故だろう…答えはすぐに出てきました。なぜなら、子供の答えがどれもこれもどこかで聞いたことがあるようなセリフだったから。例えば戦後70年という節目についての質問では、「後世に記憶をつないでいかなければならないと思った。」「二度と過ちを繰り返してはいけないと思った。」小学校低学年と思われる子供がこう答えています。確かにその通りです。しかし、この年の子供が、「後世に繋ぐべきもの」や「二度と繰り返してはならない過ち」を一体何と比較してそう答えているのか、と考えると、それらの答えがどうしようもなく薄っぺらなものに感じられてしまうのは私だけでしょうか。メディアはもちろん、そのような優等生的答えを「素晴らしい」と発信します。見ている方もそうだそうだ、こんな小さな子供がこんな立派な答えをするなんて素晴らしい、と同感するわけです。しかし、私には子供の「これを言えば正解」的な発想が見えてしようがありません。
 この話をある小学校の教師をしている友人にしたところ、それはしょうがない、とため息をつかれました。文部省がだす学習指導要綱に、あるべき理想の答えとして、そのような例はいくらでもみられる。そのような答えを引き出すための授業を教師は行っている、とのこと。なんだかなあ…
 最近では小学生が英語を学校で学ぶようになりました。多くの著名な学者がそれに対して異議を唱えています。その理由は、「まずは母国語で自分を表現できるようになることが最優先、外国語取得はその次」というものがほとんどです。外国語を話せるというだけだったら、私たちよりずっと発音の正確なコンピューター機器のほうに軍配があがるでしょう。けれど、話す内容や、テンポ、声のトーン、顔の表情、話の間、相手を思う度合い、等は千差万別であるはずなので、それはコンピューターにはまねできません。話す内容のないまま言葉ができても、相手と対等に渡り合うことはできないことは明らかです。
 今の小学生にどうしても英語を学ばせたいならしようがない。けれど、それと並行して、もっと自分自身の意見を探って表現する力を身につけてほしいと思います。正解、不正解などない、表現して相手に伝えるという作業の楽しさを学んでほしい。自分が一体なにを感じているのか、それを正確に言葉にする作業は簡単ではありません。100パーセント伝えることはまず不可能でしょう。けれど、だからこそ伝えようと一生懸命になる。ここから会話がはじまります。そのためにはまず教えるほうの立場がその練習をはじめないといけないでしょうね…
 100パーセント伝えることはできないけれど、話してみる価値はある、聞く価値はある、話してもいいんだ、聞いてくれる人がいるんだ、相手が自分を信頼して話しをしてくれている、と子供が思えるようになること。これはいじめの対策にも通じてくると思います。
 


2015年9月7日月曜日

福島 桧原湖にて夏休み

 ご無沙汰いたしております。ドイツの学校は今日から新学年のはじまりです。zenzai53も長い夏休みを頂いておりましたが、今日からまた活動しています。
 夏休み中にあった色々な出来事をぽつぽつと書いていこうかと思います。今年もまた、実家の仙台に帰省しておりました。その間に、福島県の裏磐梯方面へ子供を連れて短期旅行をしてきました。裏磐梯は子供のころよく訪れた思い出の地です。今回の訪問は一体何年ぶりでしょうか。五色沼も桧原湖も子供のころのイメージと全く変わらず、美しいままでした。磐梯山頂への急な山道もそのまま。とても懐かしかったです。桧原湖でのカヤックと水遊びは最高でした。ドイツ人に「福島で夏休みを過ごした」というと、ぎょっとされます。福島という言葉には、原発事故のイメージしかありませんから。説明してやっと、夏休みが過ごせる場所があると知ると、半信半疑で納得してくれます。
 原発事故については、日本国内でも急速にその興味が失われているのがわかります。しかし、地元福島の新聞やテレビニュースでは、未だに主要項目として大きく取り上げられています。新聞一枚にしても、大手紙と地元紙の温度差が異様に思われます。
 未来への好奇心が、オリンピックをはじめこれから新しくはじまるものだけではなく、震災被害からの復興という好奇心へもっと目が向けられることを祈ります。オリンピック開催に関して多大な損失がすでに出ていますが、その分でどれだけ震災被害者の新しい住まいへの補助へなっていたかと思うと、日本国の名を背負った議員や開催関係者への不信がとまりません。オリンピックを開催しても、被災者にその利益はどれだけ落ちるのでしょうか。おそらく全く落ちないでしょう。
 桧原湖周辺の旅行関係者が旅行者に向けて、被災者として未来への子供達にメッセージを伝えていました。子供達は真剣に聞いていましたが、それを聞く親御さんはどこか「ちょっとうざいな」という雰囲気があったのは事実です。
 アダム・スミスが『道徳感情論』の中で言っています。遠い国の未曾有の被害が起こった後に、他国に住む者から「深い哀悼」の意が発せられたあとには、嵐の静けさのごとく、その遠方で起こったことは忘れ去られていく…悲しいかな事実です。じゃあ、私にどうしろっていうのよ、と不快に思われている方がいるかもしれません。その苛立ちの一端を私ももっています。まずは震災への興味を失くさないこと。その興味が日常生活の色々な場面で繋がっていることを発見し、それを知人に伝えたり、または援助団体に賛同参加したり、福島を訪れてみたり、子供に伝えてみたり…と、伝言ゲームのように繋がっていくといいですね。