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2016年1月27日水曜日

君のお母さんは本当のお母さんじゃないんだよ。

 娘が同年代の子供と一緒にいると、時々びっくりするような冷たい言葉を子供が吐き出すことがあります。例えば、
 「あのさ、君のお母さんは本当のお母さんじゃないんだよ。それって、どういうことか本当にわかってるわけ?」と、ねっとりと冷たく言い放つ男の子。
 「冬休みは家族と過ごしたっていうけど、どの家族のこと言ってるわけ?」娘が質問に答えられずキョトンとしていると、「黙ってうやむやにしないでよ。」「あ、もういいわよ。」と一人で勝手に会話を終了してしまう女の子。
 こういう言葉を小さな子供の口から聞くと、唖然とすると同時に悲しくなります。そしてこの子達の家庭での会話が見えてきます。あー、そういう風に私たちのことをこの子の親御さんは見ているのね、と。
 我々大人でさえ、「本当のお母さんじゃないことがどういうことか。」を生理学的に適切に説明できても、倫理哲学的に正しい説明なんてできやしない。「家族とは誰か」という質問もこれまた同じこと。これらをもっともらしく子供に語る大人は掃いて捨てるほどいるでしょう。そして、その答えのどれもが自己経験や防衛からくる「あるべき姿」を倫理哲学的に装飾したもの。子供はそれを丸呑みして、ここぞとばかりに当人を相手に試してみます…試してみるのはいいけど、親から聞いた通りの答えが返ってこないと困り果てます。
 上記の子供達に、娘に変わって私が返した言葉は、
 「知ってるよ。この子の本当のお母さんも私も同じオナラをする人間ってこと。同じようにご飯作ったり、悪いことしたら子供のこと怒ったり、一緒に遊んだり、泣いたり、笑ったり。もちろん、バカなことやらかしたらおやつをあげないのもね。君のお母さんも同じでしょ?今日は家に帰ったらおやつないんじゃないの?」これを聞いた男の子、口をあけてキョトン。 
 「冬休みはこの近くに住んでいる家族、おばあちゃんやいとこ達と過ごしたの。遠くに住んでいる家族とはいつかそのうちね。」女の子も同じようにキョトン。 
 どちらの回答も私にとっては事実です。ちなみに、まだまだ修行の足りぬ私は、これを側にいた彼らの母親の眼前で聞こえるように言いました… 

 
 

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