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2015年1月30日金曜日

うつ病について 1 Depression und Meditation 1

 毎日暗くて太陽の出ない冬は、気分が滅入ってしょうがないという方は少なくないと思います。特にうつ病の経験のある方は、冬になると再発の可能性が高まるようです。本当につらいですよね。せめて外界が、燦々と太陽が輝いていれば、どんなに救われることか。とはいえ、こればかりはどうしようもありません。以下は、坐禅会でいつもお話しさせていただいている内容ですが、現在うつ等で悩まれている方の参考になれば幸いです。
 つらい、悲しい、苦しい、もうだめだ、といった否定的な思考回路がはじまると、それらを「排除しよう」として思考の堂々巡りがはじまります。思考への「執着」です。思考には必ず、1はじまり 2中間 3終わり があります。否定的な思考がおこり、2中間の時点で、この否定的思考を「排除しよう」という新しい思考が加わることによって、最初の思考が 3終わり に至ることなく、次の「排除しよう」という意識と混濁してゆくことによって、うつ状態になります。もう、だめだ、この思考から逃れられない、という気分に陥っていくわけです。
 かなり簡単な説明になってしまいますが、坐禅によってこれらの堂々巡りの思考を「見ます」。「排除しよう」としている意識まで、赤の他人的にみます。見ることによって、それがただの流れる思考にすぎないことを実感できるようになります。そして、今この瞬間に、体全体で「実際に」経験していることに注意を向けてゆきます。一番気づきやすいのは呼吸でしょう。どんなに苦しくても、嬉しくても、興奮していても、寝ていても(笑)呼吸は、今この瞬間に私たちが実体験しているもので、一番気づきやすいものです。経行(歩く禅)がうつ病の方に向いているのは、坐っているよりも、体の動き、五感がはっきりと意識できるからだと思います。歩くことによって、今この瞬間体験していることへの注意の切り替えが、坐禅よりもスムーズにいくでしょう。
 否定的思考を「排除しよう」と反応するのではなく、「あ、きた」と見て、次には自分の呼吸なり、足の動きなり、動かしている手の動きなりに注意をむける。歩いている時なら、「右足」「左足」、料理中なら、「切る」「剥く」「かき混ぜる」と、行動にラベルを貼っていくのです。いわゆる行動の実況中継です。地味な作業の繰り返しですが、これによって「自分は今最悪の状況にいる」ということが、大体の場合違っていることに気がつけるはずです。
 この作業は、日常生活のいつでも練習可能です。シャワーを浴びている時、食事中、掃除中、バス停まで歩く時、ちょっとした時間に集中してやることはとてもよい練習になります。特に冬期は家にこもりがちなので、意識して外で体を動かすことが必要です。体を動かすことで、体の芯に力を感じることができます。はじめは疲れ切っても、毎日続けることによって、息切れがなくなったり、長い距離が歩けるようになったりと、体の変化を「実体験」することが力となります。
 とにかく、うつが襲ってきたら、無理に「排除しなければ」と戦わないこと。がんばらないこと。これにつきるのではないでしょうか。戦いにのることは、敵である否定的思考回路に更なる栄養を与えて、喜ばせるだけです。大丈夫、必ず良くなります。

2015年1月19日月曜日

外国人

 最近のドイツのテレビやラジオの討論番組は、テロから始まり宗教一色。プラス、 ペギーダやら某政党やらが対イスラム的な態度を押し出しています。それだけではなく、外国人全般への批判へと矛先が向きつつあり、よく考えると外国人という点では自分もそういう対象なんだよな、と考える日々です。

2015年1月16日金曜日

テロ事件に関して思うこと色々

 某二大宗教権威者がテロ事件に関して発言したその内容に共感を持ちました。
「表現の自由には限度がある。公益に資することへの発言には自由と義務があるが、それが他人を害するならば口にするべきではない。」この後続けて、他人の信仰を挑発侮辱してはならない、とも言っていました。全くその通りだと思います。テロリストが他人の命を脅す権利はどこにもなく、それに対して発言することは公益に資するでしょうが、諷刺画はテロリスト以外のイスラム教信者の心を深く傷つけているでしょう。また、今まで宗教に関心をもたなかった人間が、面白半分かつ確かな見識をもたぬままイスラム教に対するイメージを受容する可能性は大です。
 もう一方の権威者は、「これ以上の軋轢を避けるために今は声をあげないように。冷静さ、沈黙、尊厳を保つこと。一方が反応すれば、相手の反応がますます増す。暴力の連鎖を断ち切るために冷静になること。」と言っています。この言葉はイスラム教側からのものです。なんだか仏教僧の言葉のようです。反応することによって、全ては連鎖してゆく。外に向かうのではなく、己自身にかえり、尊厳をたもつこと。今我々が一番必要としていることでしょう。

 

 

2015年1月13日火曜日

言論の自由

 フランスでの新聞社襲撃テロにおける犠牲者の方の冥福をお祈りします。

 日本ではヨーロッパほどの盛り上がりは見せていないと思いますが、この事件を境に、いわゆる「言論の自由」論争が沸騰しています。私ももちろん言論における不当な制限はあってはならないと思います。が、しかし。相手が不快に感じることを、どこまでも押し通すことによって、何かポジティブな変化が起こるとは正直言って思いません…先日も書きましたが、我々の五感で受ける感覚や意識は万人平等ではないので、「言論の自由」と一方が思っても、相手は「ただの嫌がらせ」と受け取ってしまうことは簡単に予想できることです。

 ちょっと話は変わりますが、古代の仏教美術品のなかでは仏陀の姿は表現されていません。当時の信者が頑なに仏陀の言葉を守って、姿形を絵や彫刻などに表現して信仰することを避けたためです。仏陀の姿のかわりに、足跡や、傘の下の空間などで、仏陀がそこにいるかのように見るものの空想の力にまかせたわけです。しかし、時とともにそれらの約束もあいまいになり、彫刻、絵画など仏陀の姿は表現されるようになりました。そして現代では、ヨーロッパのお洒落なカフェやショップなどでも、デコレーションとしていくらでも仏陀の姿がみれます。レストランのトイレの中まで仏陀の彫刻が置いてあるという状況です。しかし、それに対してほとんどの仏教徒が無関心です。ミャンマーでクラブのフライヤーに仏陀の絵を使ったとして捕まった人間がいましたが、私が知る限りでは、風紀規制、あるいは、信仰に対する侮辱として仏陀の肖像が規制されるというのはほとんど聞いたことがありません。バーミヤンの遺跡がタリバンによって破壊された時も、一番大騒ぎしていたのは歴史家や美術史家でした。「遺跡によって争いがおこるなら、なくなったって全然かまやしない。ただの岩山だから。」といっていた仏教僧もいます。

 話の続きは座禅会で、みなさんと一緒に考えたいと思います…

 
 
 

 


 


2015年1月11日日曜日

冬休み

 大変遅くなりましたが、新年おめでとうございます。今年も何卒よろしくお願い申し上げます。

 久しぶりのブログ更新です。年末年始はちょっと疲れ気味でした。かれこれ20年も欧州に住んでいますが、未だにクリスマス時期は疲れてしまいます。家族へのプレゼントの準備が一番大変でしょうか…これはどこも同じですね。何故、疲れるのか?私が思うに、相手を喜ばせようという気持ちが、すべてのストレスの根元のようです。人を幸せな気持ちにするのはとても素敵なことですが、それが空振りに終わらないように、全力を尽くしている間がストレスとなります。「実はこんなもの必要ない?」「使わないまま物置行き?」「趣味に合わない?」などなど考えたらきりがありません。そうこうしているうちに、喜ばせようというよりも、義務感でプレゼントを選んでいるような気になり、それがストレスとなります、少なくとも私は。
 しかし、これに全く当てはまらない場合もあります。知人に読んで欲しい本や、友達が好きなお菓子など。家族以外にはすんなりみつかります。どうしてでしょうね。きっと、毎日顔を合わせない人間ほど余計な感情もすくなく、素直にぱっと、喜ぶ顔と品物が結びつくような気がします。私とは真逆だよという方のほうが多いかもしれませんが。

 大晦日と元旦はがんばって色々と料理をしますが、今年は何を思ったか、正月早々納豆を仕込みました。結果は上出来。早速納豆餅を頂きました。

 そしてスイス方面へ友人家族とスキーに行ってきました。今年は暖冬で雪がすくなかったのですが、日本の冬空のような青い空に恵まれ最高でした。
 
 こんな感じで年末年始は過ぎて行きました…その間にも世界中でテロ関連のニュースが飛び交っています。頭の中ではぐるぐると、その原因やこれから起こりうるであろう出来事など日々考えています。ブログに書いてみようと思ってみても、結局は、発する言語への感情や固定観念など万人共通のものなどみつからないので、その差異から誤解を生み出すことは避けようと思います…近いうちにCafe zenzai53か座禅会で、皆さんとはなせたらいいですね。