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2015年1月13日火曜日

言論の自由

 フランスでの新聞社襲撃テロにおける犠牲者の方の冥福をお祈りします。

 日本ではヨーロッパほどの盛り上がりは見せていないと思いますが、この事件を境に、いわゆる「言論の自由」論争が沸騰しています。私ももちろん言論における不当な制限はあってはならないと思います。が、しかし。相手が不快に感じることを、どこまでも押し通すことによって、何かポジティブな変化が起こるとは正直言って思いません…先日も書きましたが、我々の五感で受ける感覚や意識は万人平等ではないので、「言論の自由」と一方が思っても、相手は「ただの嫌がらせ」と受け取ってしまうことは簡単に予想できることです。

 ちょっと話は変わりますが、古代の仏教美術品のなかでは仏陀の姿は表現されていません。当時の信者が頑なに仏陀の言葉を守って、姿形を絵や彫刻などに表現して信仰することを避けたためです。仏陀の姿のかわりに、足跡や、傘の下の空間などで、仏陀がそこにいるかのように見るものの空想の力にまかせたわけです。しかし、時とともにそれらの約束もあいまいになり、彫刻、絵画など仏陀の姿は表現されるようになりました。そして現代では、ヨーロッパのお洒落なカフェやショップなどでも、デコレーションとしていくらでも仏陀の姿がみれます。レストランのトイレの中まで仏陀の彫刻が置いてあるという状況です。しかし、それに対してほとんどの仏教徒が無関心です。ミャンマーでクラブのフライヤーに仏陀の絵を使ったとして捕まった人間がいましたが、私が知る限りでは、風紀規制、あるいは、信仰に対する侮辱として仏陀の肖像が規制されるというのはほとんど聞いたことがありません。バーミヤンの遺跡がタリバンによって破壊された時も、一番大騒ぎしていたのは歴史家や美術史家でした。「遺跡によって争いがおこるなら、なくなったって全然かまやしない。ただの岩山だから。」といっていた仏教僧もいます。

 話の続きは座禅会で、みなさんと一緒に考えたいと思います…

 
 
 

 


 


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