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2016年9月28日水曜日

「◯◯ちゃんママ」をやめて、名前で呼びましょうよ…

 先日、友人達と話をしていると、日本に住むお母さん方の、お互いの呼称について話題になりました。というのも、日本のお母さん方は、「◯◯さん」と本人の名前を呼ぶことをせず、「◯◯ちゃんのお母さん」とか「◯◯ちゃんママ」と呼び合うことが多いことに気がつきました。私も「◯◯ちゃんママ」と呼ばれ、あれ、この人私の名前知ってるし、以前はそんなふうに呼ばなかったよな、と一瞬思いましたが、あまり気にも留めずにいました。しかし、ここドイツに戻り、友人からこの話題をむけられ考えてみると、あーそういえば1回限りじゃなくて、もっとそんな風に呼ばれてたな…と。
 友人は、どうしてもしっくりこないし、それに合わせて相手をそのように呼ぶことができなかったと言います。なんか、おかしくない?と… 彼女は相当気に入らなかったらしく、会話の中で第3者のことを「◯◯ちゃんママ」を呼ぶ相手には、わざわざ「あー、◯◯さんのことね。」と、その呼び名を本名に訂正し続けたそうです。しかし、それはことごとく無視された…と。w あまり深く考えていなかった私ですが、日本で相手に合わせて「◯◯ちゃんママ」と呼ぼうなどとは夢にも思いつきませんでした。
 なぜ、今のお母さん方はそのようにお互いを呼び合うのでしょうか?私には、子供を盾にお母さんの存在がなかったことにされているようにしか思えません。さらに、子供が前面に出てくるので、子供の評価が、まるで自分のことのように感じてしまいませんか?悪いことをしたら、お母さんのせい。良い子だったら、お母さんの手柄、のように。もちろん、それも一理ありますが、そこではお母さんの人格が一切無視されています。更に、お母さんを後ろに背負い続ける子供がかわいそう。お母さんという立場以前に、◯◯と自分の名前でいろんなことに向き合っていきましょうよ…そのほうが子供もお母さんも、もっと楽に生きれるはずです。

 
 

2016年9月26日月曜日

少年野球リーグ優勝!!

 やりました、ヘッセン州リーグ優勝!移籍チームでの、まさに底辺からのスタートから1年半…やっと指導の成果が実りました :...) 勝算はかなり厳しいとみていたこのプレイオフでは、子供達は見事な集中力を見せてくれ、13対3、15対0、の圧勝! 優勝が決まった瞬間、子供達からのシャンパンならぬ、炭酸水のぶっかけでずぶ濡れに。トレーナーとしてこんなに苦労したのは初めてだったので思わず感涙。
 かれこれ10年余りのドイツでの野球ソフトボールトレーナー生活は、すでに私の人生のとても大切な一部になっています。そして、このプレイオフで子供達が見せてくれた集中力は、まさに呼吸指導の成果でもあります…

2016年9月21日水曜日

愛語

 先日の和顔施に続き、今度は愛語です。ここ数日ちょっと嬉しくない出来事が続きました。唐揚げを揚げていたら、思いっきり油が首に飛んできて火傷。森の坂道をマウンテンバイクで走っていたら、激しく転倒してむち打ちに切り傷、そして自転車が激しく破損。野球場で蜂に2箇所刺される。今日は更に、暗闇で野球道具の片付けをしていたら、鉄骨に小指を挟め怪我(骨折の予感…)。あーあ。ついていない時はどこまでもついていません。かなりションボリ気味の私に、坐禅会にいつも参加していただいている女性から久しぶりの一通のメイル。特別な要件ではなく、いわゆる「お久しぶりです。お元気ですか?」的ななんでもないメイルでしたが、読んでいるうちにすーっと気分が晴れました。そこには、相手を思いやり、更に自身の近況を語る、「美しい丁寧な日本語」が並んでいました。同じ内容を今時の言葉で語ったとしたら、全く違った感覚で受け取り、特に気にも留めないかもしれません。しかし、このメイルは別格で、まさに清涼剤となりました。そして、ふと気が付いたのです。あー、これは「愛語」だよね、と。愛語は仏教用語で、他人に優しい思いやりのある言葉をかけること。たかがメイルでも、「美しい丁寧な日本語」で受け取る人間にこんなにも伝わり方が変わるものなんだな、と実感しました。Yさん、ありがとうございました。

2016年9月19日月曜日

和顔施

 この前、ふと気がついたこと。ドイツはなんと「和顔施(わがんせ)」だらけ… ヨーロッパに住み着いて20年以上たって、今頃やっと気が付きました。なんのこっちゃ、と思われている方も多いかと思いますので、少々説明を。和顔施とは仏教用語で、いわゆるお布施の一つです。お布施は世間一般に考えられているような、お寺に収めるだけのものではありません。布施は他人に惜しみなく与えること。それは物質だけではなく、体を使った行動も布施になります。それもなにか特別な重労働をするだけではありません。例えばこの和顔施は、他人に笑顔、優しい顔を向けること。それが立派な他人への布施となります。親が子へ見せる笑顔は立派な布施です。そしてまた、公共の場でのちょっとした譲り合いで見せる笑顔。一人でお使いに来ている子供にみせる、同じ買い物に来ている主婦の笑顔。バスや電車を待つ列の隣同士へのちょっとした笑み。散歩ですれ違う際の笑み。銀行の自動支払機の用を済ませ、次の人へ「どうぞ」の代わりの笑み。これらは全て赤の他人へ向けられる笑みです。このちょっとした笑みが、どれだけ日常生活に小さな安心感を与えていることか。赤の他人から向けられる、「敵じゃないよ、おなじ人間だよ。心配ないよ。」宣言。子供にちょっと笑みを見せるだけで、性犯罪者の疑いをかけられたり、混み合う電車の中で「お互い大変ですね」のはずの笑顔が痴漢に間違われたり…和顔施は今の日本に大きく欠けているものに感じられます。

2016年9月10日土曜日

癒しも問題解決もシンプルに…

 今週末ホフハイムで行われている、Grenzenlos-Messe2016 - Sprit & Heilen(無境界メッセ2016 精神と癒し)を見学してきました。ブッダの頭頂部が写っているポスターが毎年使われているので、見たことがある方もいるかもしれません。座禅会参加者の方からどんなものか聞いてはいましたが、その方の報告通りのものでした。物販中心のメッセです。パワーストーン、ブッダやヒンズーの神様の置物、シンギングボウル、アジアン衣料、など。その合間をぬって、レイキ、指圧、マッサージ、水の販売、瞑想のセミナー、占星術、タロット、自己開発セミナーなどが並んでいます。10分程度会場内をみているうちに、頭が痛くなってきたので引き上げることにしました。駄目元で、zenzai53のフライヤーを置かせてくれないか、と責任者に頼んだところ正直すぎるほどの嫌な顔をされ、ま、こんなもんさと帰って来ました。
 ケン・ウィルバーを思い出させる「無境界」というタイトルの割には、どこもかしこも境界だらけ。更に「精神と癒し」という耳には心地のよい流行りの文句ですが、癒しを「購入しなければならない」、さらなる癒しが必要な時は個人情報と引き換えで案内が来る。まさに、先日の「教養のための仏教勉強会 第4回」でとりあげた通りでした。いづれにせよ、全て「不思議」や「物品」にあなたのストレス退治や、人間関係問題をまかせてしまって大丈夫ですか?解決どころか、それらに気を取られているうちに問題が大きくなっていませんか?そんな面倒なことに時間とお金を費やさずに、シンプルにいきましょうよ… 私もかわいいお地蔵様の置物は好きだし、いい匂いのお香も好きです。けれど、最低限に、そして意識的に所有し適度に大事にする、これって大事だと思うのです。集め出したり、買ったことも忘れてしまう、効能がないから新しい物購入…であれば、それはうまく騙されているといってよいのではないでしょうか…
 

2016年9月5日月曜日

「空気が読めない」より「押しが強い」ほうが苦手…

 今日の座禅会で出た話題について。いわゆる「押しの強い」「我が道を行く」さらに、現代用語で言えば「空気の読めない」人をどうすべきか。
 まず、この「空気を読めない」という話題は、正直言うとどうでもよい。空気を読めない、と嘆いている時点でかなりの割合の、大きな勘違いと、相手への期待と、自分勝手がまかり通っていると思うから。そもそも一つの状況を同じように感じていないことへの不満は、本人の問題。同じように感じることができる人間などどこにもいるはずがない。それを、いかにも「思いやりのある人間」かのように、「私は空気が読める人間」と思っている人間ほどおぞましいものはないと思う。相手の感じていることが、私とは違うはず、しかし、それをどうにかして理解したい、と努力できる人間が本当の意味での「思いやりのある人間」でしょう。KYで人を片付けることはとても危険です。自分自身の思いやりのなさを露呈するようなものです。
 そして、「我が道を行く」ことについて。これは、時と場合によりけりです。白黒かなり極端に転べる表現ですよね。
 今日問題となるのは、「押しの強い」ということ。私も未だに苦手です。なぜなら、はっきりと押しの強い申し出を断れない自分に苛立つから。w 本当は自分に苛立っているのに、その苛立ちが方向転換して相手に向いてしまう。「なんて押しが強いの、この人!」と… しかし、勇気を出して最初からはっきりと断ったとして、それでも相手が食いついてきた時、或いは明らかに「なんてあんたは怖い嫌な人間なの」的な態度を取られた時どうするか。大体の場合、イライラに火がついてしまいますね…そして、このイライラは、勇気をもってとったはずの自身の行動結果の不成功を呪うわけです。w そして堂々巡りがはじまる。じゃあ、どうすればいい? 正直に言うと、私もよくわかりません。ただ、私が最近心がけているのは、大げさなほどのユーモアでイライラを返すこと。半分嫌味に聞こえるようなことも、ユーモアであることを全身全霊で表現しつつ返すと、やってる自分に笑え、更には今何にイラついているのかよくわからなくなり、ジェスチャーもバカバカしく思える数秒後には、けっこう冷静になっていたりします。その瞬間にもう一度、相手に提言する。そうすると、大体の人に自分の気持ちは伝わっているような気がします。w

2016年9月2日金曜日

ブルキニ。すべては心に映ったもの。

 フランスで起こったブルキニ問題。浜辺で警察官が、容赦なくブルキニを脱がせる写真が最近世界に広まりました。私は、ブルキニをみようが、キリストの磔刑図をみようが、正直なんとも思いません。すべては心に映ったもの。映ったものを解釈するのは万人それぞれ。自己の解釈を過剰に表に出さずにはいられない人、その解釈の平等性を求める人、それも一概に否定はしませんが、ブルキニ反対の方、日本の浜辺を見てくださいな。いたるところ、まさるとも劣らぬ全身ラッシュガードだらけですよ。そういう私もその一人。だって日焼け止め塗るより楽ですから…