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2016年12月15日木曜日

師走

 師走です。今年は例年よりせかせかしていない日々を過ごしています。ラジオも最近あまり聞かないので、脅迫的なクリスマスソングラッシュも耳にしていません。ゆえに「ラスト・クリスマス」は今年はまだ1回しか聞いていません。その1回で見事に蘇る80年代。頭の中では見事に思考の連鎖が始まります。坐禅中とは違い、その思考の快速特急に喜んで乗ってしまい、ひとりニヤニヤして我に帰ることがあります。例えば、ワム時代よりその後のジョージ・マイケルのほうが好きですが、クリスマス時期にはどうしても、あの聖子ちゃんカットを短くしたようなヘアスタイルに、ニカッと白い歯を見せて笑う彼の若い頃の顔が頭から離れません… そのイメージに思わずサンタの帽子をかぶせてしまう。南無三。
 ブログの更新が滞っていますが、ありがたいことに毎日坐禅に来てくれる方がいて、有意義な時間を過ごしています。色々な職種の方との出会いがあり、私自身たくさん勉強させていただいています。経典をきちんと読んでみたいという強熱心なドイツ人の方のリクエストで、来年早々ドイツ語での経典を読む会をまた定期的に開く予定です。

2016年11月30日水曜日

若年層の自殺

 最近、若年層の自殺のニュースを以前に増して耳にするようになった。そこから考えることを幾つか断片的ではあるが、あげてみたい。
 いじめによる自殺は、学校側の責任という点に大体は問題点が絞られている。いったいいつまでそんな身も蓋もない責任の所存を突き詰めてどんな解決になるのだろう。加害者にも被害者にも家族がある。まちがいなくそこに、問題発生抑制の糸口があるはずだ。それも、加害者や被害者本人ではなく、その親、そしてその親の子供時代にまで遡ると、まちがいなく複雑な家庭環境と心理状況が見えてくる。
 若年層の事件発生後に、近所の人にどんな人間だったかインタビューを向ける大衆番組。そこで聞けるのは、「普通の人だった」「問題を起こすようには見えなかった」
というもの。これらの答えを聞くたびに、この人たちは、彼らと通り一遍の挨拶程度の人間関係しかなかったことを示している。さらに、「家庭のことだから口出しはできなかった」という答えからは、口出ししたかったけどしなくてよかった、いや、しとけばよかった、私に何ができたっていうのよ、というジレンマが垣間見えてくる。
 あなたはあなた。私は私。という自他が完全に独立するからこそ良しとする、キリスト教世界から生まれた認識を、日本人はその上辺だけを吸収してしまった。その傾向は、デジタルコミュニケーションの加速化と並行している。実際に人と目を合わせて話すことを心地よしとしない人間は、どれだけ増えているのだろう。これは、上記のように答える人間の多くに当てはまるのではなかろうか。そうではなければ、加害者の歪んだ家庭環境や、被害者の心の悲しみをこんなありきたりの言葉で説明できるはずがない。
 また、血縁関係のない関係者はどのように事件を受け止めているのだろう。私自身、17歳という多感な時期に親友に自殺されたので、彼らの胸中を思うとそばに寄り添わなくては、という思いが強くなる。否定も肯定もせずに話を聞いてくれる人、そんな人が彼らの周りに見つかりますように…
copyright@zenzai532016

 

2016年11月28日月曜日

Klavier und Zen

 Eine Frau hat zazen bei mir angefangen, um Ihre Klavieraufführung zu verbessern. Wir haben lang über verschiedenen Themen unterhaltet. z.B. Die Mobilität von Fingern, Die Haltung vom Rücken, die Hörsinn, Sehsinn und Tastsinn, das Publikum, das Raum, der Atem, die Noten u.s.w. Endeffekt haben wir ausgefunden, dass alles wie Tee Zeremonie oder wie Sport ist. Am Schluss hat sie vor mir Klavier gespielt. Das war ein sehr harmonisches privat Konzert ! Es war eine tolle und neue Erfahrung für mich.

2016年11月21日月曜日

トランプ新興宗教化?!

 米大統領選挙が終わり、どこの日本のメディアでも「トランプがちょっと変わった。もしかしたらいけるかもしれない。」的な発言が続いているように感じます。最近まで批判を繰り返していた経済評論家、国際政治研究家と名のついたひとたちが、その発言をするたびに感じてしまうこと、それはトランプの勝利がどこか新興宗教的なノリを感じさせるのです。島薗進先生がスピリチュアリティ文化について述べているように、「教祖の個人的な霊的神秘体験」を敬うのが新興宗教だとすると、アメリカのトランプ崇拝は「トランプのビジネスマンとしての成功例」がその一つに数え挙げられるでしょう。もしもこの成功体験が信者には不可能だとわかる時、新興宗教が解体されるのと同じように、支持者も反旗をひるがえすような気がします。
 copyright©zenzai53

2016年10月18日火曜日

夫婦で家接心 3 Tage Intensive Meditation mit meinem Mann ; )

 ここ数ヶ月、仕事で一杯一杯のダンナがとうとう帯状疱疹を患ってしまいました。幸い、早期発見と薬の投与が効いて激痛はなし。毎日パソコンとにらめっこのダンナに私のイライラも限界に達しました。
 主人は普段、私が坐禅やマインドフルネス指導をしているにも関わらず、ダンナは一度として参加したことがありません。煙たがっているそぶりを見せる割には、私に来客があると、きちんとその時間帯は沈黙を守り、仕事に敬意を払ってくれています。半信半疑、怖いもの見たさ、新しいことへ尻込み、といった感じでした。そこで、先週末から秋休みに入ったのを待っていましたとばかりに、子供をおばあちゃんに預けて3日間の家接心を提案。「もう、あなたを救う道はこれしかない!」と、どこぞの新興宗教の勧誘並みの真剣さで訴えました。w すると、ダンナは意外にもすんなりとOK。ありゃりゃ、どんな反論が来るかと構えていたのが馬鹿馬鹿しくなりました。すんなり陥落するほど、ストレスでもうどうにもならなくなっていたというのが正解でしょう。
 まずは、心理学者、脳生理学者らの瞑想に関する学術報告ビデオを見せウォームアップ。そのあとは、通常の坐禅会参加者と同じように、テキストや口頭で坐禅とマインドフルネス瞑想について解説。そして開始です。
 1時間を1セッションとして、3日間で15セッションを計画しました。その間、森での1〜2.5時間かけた経行(歩く禅)を3回含みます。もちろん、食事中と質問以外は沈黙を保ちます。
 1回目のセッションは、ダンナは5分で挫折。坐禅中、足が痛くて動き始めたダンナは、隣で座っている私に恐る恐る近寄ります。私が起きているかどうかチェックのために、まずは目の前で手を振るダンナ。w 反応しない私の目が開いているかどうか、下から覗き込む。4、5秒考えた末に、とうとう私の肩をゆらして一言「ねえ、起きてる?」w。とうとう、私も反応することに決め、目をはっきりと開けました。「今寝てた?足が痛いんだけど。」あまりの朴訥な発言に笑いをこらえきれず大笑い。「今までいろんな人と一緒に座ってきたけど、肩を揺すられて助けを求められたのは、あんたが初めてだわ〜」と、こんな感じでどうなることやら…と始めまりました。
 しかし、笑える1回目が嘘のように、ダンナは毎回真剣に取り組んでくれました。足の痛みに耐えられず、椅子坐禅に2回ほど変えましたが、途中坐禅に関する記事を読むうちに「やっぱり、ちゃんと座れるようになった方がいいと思う。」と、自分から座布団に座るようになりました。そして、最後のセッション時には25分間きっちりと座れるようになっていました。
 毎回、素直にトライしてゆくダンナと一緒に、私ももちろん真剣に座りました。特に、慈悲の瞑想では、忙しいダンナに対してとげとげしい言葉を発したりイライラする自分を猛省。この家接心が私に取っても大きな収穫となったことは言うまでもありません…
 終了後、「よくがんばったよね、お疲れ様。」とお互いにねぎらい、ダンナからの一言、「これから毎日座ってみようかな…」ストレス軽減だけではなく、それに伴う家族不穏にも、坐禅やマインドフルネス瞑想が役立つことを再認識しました。
 

2016年10月9日日曜日

余命宣告と「希望」について。

 座禅会に参加されている方から、日本の緩和医療やホスピスの状況を伺いました。患者の方がどの病院にお世話になるか、その決め手となるのは「希望を持たせてくれるか」どうかだそうです。とても考えさせられるテーマです。
 余命宣告をされた時、家族や周りの人間は「いなくなった将来」について刻々と思いをめぐらせる。その一方、患者本人は将来ではなく、残された時間を「どうすごせばよいのか」恐怖とやりきれぬ思いでとまどう。やり残した過去について少しでもいいから精算しておきたい。あるいは、どうしてもやりたかったことをやってみたい。と、TO DOリストが山のように頭の中に浮かんでは消えているかもしれません。そして、そのリストの大半は家族のリストとは違うものでしょう。
 「いなくなった将来」は、患者さん本人にとって、家族と比べればあまり重要ではないかもしれない。もしかしたら、そんなことはどうでもいいのかもしれない…  そんな時、「今、ここ」に生きている瞬間を肯定的に共有してくれる人間がいたら、どんなに心強いかと思うのです。それが、「希望を持たせてくれる」ということではないかな、と思いました。患者さん自身だけではなく、家族や知人も「今、ここ」に集中して一緒に生き抜く。どんな小さなことでも、「そんなの今更…」とか、「もっと違うことに時間を使った方がいいのに」と、否定しない。余命宣告をされた時点で、その方の人生が終わったわけではありません。毎朝の挨拶から、食事中の会話、テレビを見ながら一緒に笑うこと、新聞の一説を一緒に真剣に考えること、ペットと本気で遊ぶこと、風呂の温かさをしみじみ味わうこと、そんななんでもない日常の瞬間を一緒に本気で過ごすこと、それが何よりの「希望」につながるでしょう。

 生死事大 無常迅速 各宜覚醒 真勿放逸 「六祖壇経」

 

2016年10月5日水曜日

一養子親として有名俳優カップルの離婚劇から思うこと。

 某超有名アメリカ人俳優カップルの離婚…カップル自身のことよりも、彼らの片手では数えきれぬ子供達がかわいそう。と、思った方もたくさんいるのではないでしょうか。彼らに限らず、他にもいますよね。映画監督と離婚した某ポップスターや、サイエントロジーの広告塔の彼も前妻との間には養子がいました。彼らの離婚劇には、眉をひそめる養子親が世界中にたくさんいるでしょう。だって、その後は必ず「やっぱり養子はかわいそう。親のエゴで子供が取引された。」というイメージが必ず世間にあふれるから。別に関係ないといえば関係ないのだけれど、これらのゴシップニュースを、養子自身が将来自分で認識するようになった時、どんな感情を抱くのだろう。と、ふと考えます。
 じゃあ、離婚をする予定のない人間に養子縁組をしたらどうだろう?南アフリカ出身の某女優は、シングルで養子縁組してますね。私はエンタメニュースには興味ありません。そんな私でもニュースを目にするとすれば、離婚劇等の大見出しの時くらい。なので、彼女がいまどんな生活をしているのか知りません。ドイツではシングルに養子縁組はできないので、どんな審査を通って彼女が養子縁組をできたのか興味はあります。
 さて、何が言いたいのか。結婚していれば、夫婦は確実に固く結ばれているから子供も幸せなんていうことは幻想だし、シングルだから子供は幸せになれないというのも幻想だと思います。さらに、このことは養子だけにあてはまることではなくて、実子についても同じこと。子供に限らず親にも当てはまりますが、「何か自身から欠けてしまった」と感じたその後に、その穴埋めの方向が、自身を傷つけることなく健全であることを祈るのみです。
 

2016年9月28日水曜日

「◯◯ちゃんママ」をやめて、名前で呼びましょうよ…

 先日、友人達と話をしていると、日本に住むお母さん方の、お互いの呼称について話題になりました。というのも、日本のお母さん方は、「◯◯さん」と本人の名前を呼ぶことをせず、「◯◯ちゃんのお母さん」とか「◯◯ちゃんママ」と呼び合うことが多いことに気がつきました。私も「◯◯ちゃんママ」と呼ばれ、あれ、この人私の名前知ってるし、以前はそんなふうに呼ばなかったよな、と一瞬思いましたが、あまり気にも留めずにいました。しかし、ここドイツに戻り、友人からこの話題をむけられ考えてみると、あーそういえば1回限りじゃなくて、もっとそんな風に呼ばれてたな…と。
 友人は、どうしてもしっくりこないし、それに合わせて相手をそのように呼ぶことができなかったと言います。なんか、おかしくない?と… 彼女は相当気に入らなかったらしく、会話の中で第3者のことを「◯◯ちゃんママ」を呼ぶ相手には、わざわざ「あー、◯◯さんのことね。」と、その呼び名を本名に訂正し続けたそうです。しかし、それはことごとく無視された…と。w あまり深く考えていなかった私ですが、日本で相手に合わせて「◯◯ちゃんママ」と呼ぼうなどとは夢にも思いつきませんでした。
 なぜ、今のお母さん方はそのようにお互いを呼び合うのでしょうか?私には、子供を盾にお母さんの存在がなかったことにされているようにしか思えません。さらに、子供が前面に出てくるので、子供の評価が、まるで自分のことのように感じてしまいませんか?悪いことをしたら、お母さんのせい。良い子だったら、お母さんの手柄、のように。もちろん、それも一理ありますが、そこではお母さんの人格が一切無視されています。更に、お母さんを後ろに背負い続ける子供がかわいそう。お母さんという立場以前に、◯◯と自分の名前でいろんなことに向き合っていきましょうよ…そのほうが子供もお母さんも、もっと楽に生きれるはずです。

 
 

2016年9月26日月曜日

少年野球リーグ優勝!!

 やりました、ヘッセン州リーグ優勝!移籍チームでの、まさに底辺からのスタートから1年半…やっと指導の成果が実りました :...) 勝算はかなり厳しいとみていたこのプレイオフでは、子供達は見事な集中力を見せてくれ、13対3、15対0、の圧勝! 優勝が決まった瞬間、子供達からのシャンパンならぬ、炭酸水のぶっかけでずぶ濡れに。トレーナーとしてこんなに苦労したのは初めてだったので思わず感涙。
 かれこれ10年余りのドイツでの野球ソフトボールトレーナー生活は、すでに私の人生のとても大切な一部になっています。そして、このプレイオフで子供達が見せてくれた集中力は、まさに呼吸指導の成果でもあります…

2016年9月21日水曜日

愛語

 先日の和顔施に続き、今度は愛語です。ここ数日ちょっと嬉しくない出来事が続きました。唐揚げを揚げていたら、思いっきり油が首に飛んできて火傷。森の坂道をマウンテンバイクで走っていたら、激しく転倒してむち打ちに切り傷、そして自転車が激しく破損。野球場で蜂に2箇所刺される。今日は更に、暗闇で野球道具の片付けをしていたら、鉄骨に小指を挟め怪我(骨折の予感…)。あーあ。ついていない時はどこまでもついていません。かなりションボリ気味の私に、坐禅会にいつも参加していただいている女性から久しぶりの一通のメイル。特別な要件ではなく、いわゆる「お久しぶりです。お元気ですか?」的ななんでもないメイルでしたが、読んでいるうちにすーっと気分が晴れました。そこには、相手を思いやり、更に自身の近況を語る、「美しい丁寧な日本語」が並んでいました。同じ内容を今時の言葉で語ったとしたら、全く違った感覚で受け取り、特に気にも留めないかもしれません。しかし、このメイルは別格で、まさに清涼剤となりました。そして、ふと気が付いたのです。あー、これは「愛語」だよね、と。愛語は仏教用語で、他人に優しい思いやりのある言葉をかけること。たかがメイルでも、「美しい丁寧な日本語」で受け取る人間にこんなにも伝わり方が変わるものなんだな、と実感しました。Yさん、ありがとうございました。

2016年9月19日月曜日

和顔施

 この前、ふと気がついたこと。ドイツはなんと「和顔施(わがんせ)」だらけ… ヨーロッパに住み着いて20年以上たって、今頃やっと気が付きました。なんのこっちゃ、と思われている方も多いかと思いますので、少々説明を。和顔施とは仏教用語で、いわゆるお布施の一つです。お布施は世間一般に考えられているような、お寺に収めるだけのものではありません。布施は他人に惜しみなく与えること。それは物質だけではなく、体を使った行動も布施になります。それもなにか特別な重労働をするだけではありません。例えばこの和顔施は、他人に笑顔、優しい顔を向けること。それが立派な他人への布施となります。親が子へ見せる笑顔は立派な布施です。そしてまた、公共の場でのちょっとした譲り合いで見せる笑顔。一人でお使いに来ている子供にみせる、同じ買い物に来ている主婦の笑顔。バスや電車を待つ列の隣同士へのちょっとした笑み。散歩ですれ違う際の笑み。銀行の自動支払機の用を済ませ、次の人へ「どうぞ」の代わりの笑み。これらは全て赤の他人へ向けられる笑みです。このちょっとした笑みが、どれだけ日常生活に小さな安心感を与えていることか。赤の他人から向けられる、「敵じゃないよ、おなじ人間だよ。心配ないよ。」宣言。子供にちょっと笑みを見せるだけで、性犯罪者の疑いをかけられたり、混み合う電車の中で「お互い大変ですね」のはずの笑顔が痴漢に間違われたり…和顔施は今の日本に大きく欠けているものに感じられます。

2016年9月10日土曜日

癒しも問題解決もシンプルに…

 今週末ホフハイムで行われている、Grenzenlos-Messe2016 - Sprit & Heilen(無境界メッセ2016 精神と癒し)を見学してきました。ブッダの頭頂部が写っているポスターが毎年使われているので、見たことがある方もいるかもしれません。座禅会参加者の方からどんなものか聞いてはいましたが、その方の報告通りのものでした。物販中心のメッセです。パワーストーン、ブッダやヒンズーの神様の置物、シンギングボウル、アジアン衣料、など。その合間をぬって、レイキ、指圧、マッサージ、水の販売、瞑想のセミナー、占星術、タロット、自己開発セミナーなどが並んでいます。10分程度会場内をみているうちに、頭が痛くなってきたので引き上げることにしました。駄目元で、zenzai53のフライヤーを置かせてくれないか、と責任者に頼んだところ正直すぎるほどの嫌な顔をされ、ま、こんなもんさと帰って来ました。
 ケン・ウィルバーを思い出させる「無境界」というタイトルの割には、どこもかしこも境界だらけ。更に「精神と癒し」という耳には心地のよい流行りの文句ですが、癒しを「購入しなければならない」、さらなる癒しが必要な時は個人情報と引き換えで案内が来る。まさに、先日の「教養のための仏教勉強会 第4回」でとりあげた通りでした。いづれにせよ、全て「不思議」や「物品」にあなたのストレス退治や、人間関係問題をまかせてしまって大丈夫ですか?解決どころか、それらに気を取られているうちに問題が大きくなっていませんか?そんな面倒なことに時間とお金を費やさずに、シンプルにいきましょうよ… 私もかわいいお地蔵様の置物は好きだし、いい匂いのお香も好きです。けれど、最低限に、そして意識的に所有し適度に大事にする、これって大事だと思うのです。集め出したり、買ったことも忘れてしまう、効能がないから新しい物購入…であれば、それはうまく騙されているといってよいのではないでしょうか…
 

2016年9月5日月曜日

「空気が読めない」より「押しが強い」ほうが苦手…

 今日の座禅会で出た話題について。いわゆる「押しの強い」「我が道を行く」さらに、現代用語で言えば「空気の読めない」人をどうすべきか。
 まず、この「空気を読めない」という話題は、正直言うとどうでもよい。空気を読めない、と嘆いている時点でかなりの割合の、大きな勘違いと、相手への期待と、自分勝手がまかり通っていると思うから。そもそも一つの状況を同じように感じていないことへの不満は、本人の問題。同じように感じることができる人間などどこにもいるはずがない。それを、いかにも「思いやりのある人間」かのように、「私は空気が読める人間」と思っている人間ほどおぞましいものはないと思う。相手の感じていることが、私とは違うはず、しかし、それをどうにかして理解したい、と努力できる人間が本当の意味での「思いやりのある人間」でしょう。KYで人を片付けることはとても危険です。自分自身の思いやりのなさを露呈するようなものです。
 そして、「我が道を行く」ことについて。これは、時と場合によりけりです。白黒かなり極端に転べる表現ですよね。
 今日問題となるのは、「押しの強い」ということ。私も未だに苦手です。なぜなら、はっきりと押しの強い申し出を断れない自分に苛立つから。w 本当は自分に苛立っているのに、その苛立ちが方向転換して相手に向いてしまう。「なんて押しが強いの、この人!」と… しかし、勇気を出して最初からはっきりと断ったとして、それでも相手が食いついてきた時、或いは明らかに「なんてあんたは怖い嫌な人間なの」的な態度を取られた時どうするか。大体の場合、イライラに火がついてしまいますね…そして、このイライラは、勇気をもってとったはずの自身の行動結果の不成功を呪うわけです。w そして堂々巡りがはじまる。じゃあ、どうすればいい? 正直に言うと、私もよくわかりません。ただ、私が最近心がけているのは、大げさなほどのユーモアでイライラを返すこと。半分嫌味に聞こえるようなことも、ユーモアであることを全身全霊で表現しつつ返すと、やってる自分に笑え、更には今何にイラついているのかよくわからなくなり、ジェスチャーもバカバカしく思える数秒後には、けっこう冷静になっていたりします。その瞬間にもう一度、相手に提言する。そうすると、大体の人に自分の気持ちは伝わっているような気がします。w

2016年9月2日金曜日

ブルキニ。すべては心に映ったもの。

 フランスで起こったブルキニ問題。浜辺で警察官が、容赦なくブルキニを脱がせる写真が最近世界に広まりました。私は、ブルキニをみようが、キリストの磔刑図をみようが、正直なんとも思いません。すべては心に映ったもの。映ったものを解釈するのは万人それぞれ。自己の解釈を過剰に表に出さずにはいられない人、その解釈の平等性を求める人、それも一概に否定はしませんが、ブルキニ反対の方、日本の浜辺を見てくださいな。いたるところ、まさるとも劣らぬ全身ラッシュガードだらけですよ。そういう私もその一人。だって日焼け止め塗るより楽ですから…

2016年8月26日金曜日

ツイッターはじめました。

 本当に今更ですが、ツイッターはじめました。仏教、東洋思想、哲学の名言を掘り起こしていきます。zenzai53の原動力となる名言の数々をシェアできるとうれしいです。: )
こちらから → https://twitter.com/zenzai_53

2016年8月24日水曜日

サーフボードを切り離せ!

 ここ最近、子育てや家族関係でスッキリしないことが多く、まさに一方通行の行き止まりに突き当たってしまった感じでした。原因は全て自分にあるとわかっているんですが、どうも抜け出せない。まさに、乗りたくない快速特急に乗ってしまって、目的地とはなんの関係もない場所に来てしまった感じです。しかし、今回の摂心で目的地に戻ることができました。
 そのコツはというと、「サーフボードを切り離せ!」です。w なんのこっちゃ、と思われると思います… 説明をすると、まず、海は私たちの心です。表面は心の喜怒哀楽や欲望、葛藤で大波、小波と揺れ動いています。しかし、海面から離れて潜っていくと、波は収まり、静かで平和な深海世界が現れてきます。海面も深海も同じ一つの心です。と、ここまでは座禅会参加者のみなさんにもよくお話ししていることです。しかし、どうやって深海にたどり着く?!
 座禅中にふと気がついたことは、私はこの大波小波をうまく乗り切ろうとしている。まさにプロのサーファーのように。サーフボードは私の「エゴ」です。うまく乗り切れると信じて疑わない「強い意志」ではなく、ただの「エゴ」であることに気づきました。そこで、とりあえず、そのエゴサーフボードから飛び降りることにしました。しかし、このサーフボードは足に結びつけられているために、落ちても落ちても浮力ですぐに、また波の表面に体ごと一緒に浮かび上がってしまう…これが座禅中での葛藤でした。そこではっときがついたのが、そうだ、落ちたら迷わずにサーフボードを切り離してしまえ!そしてそのまま、海に沈んで行け!という感覚でした…
 そして、どんどん沈んでいったら、海面を見上げてみる。そうすると、自分の心の状況がよく見渡せました。広い、広い、海の中のごく一部で起こっている大きな荒れた波。その波も、実は穏やかな美しい白い砂浜の波打ち際にもつながっている。そこまで心を広げてゆく。そっか、こんな簡単なことだったのになあ。波に乗っている時には格闘することに夢中になって、そんな当然のことに見向きもしない。大反省です…
 さてさて、ドイツは来週から新学期です。子育てに悩めるお母さんがた、家族関係、友人関係に悩めるみなさん、また一緒に精進して行きましょう。9、10月はオープン座禅会を復活させます。お気軽に連絡の上、お越しください。お待ちしています!

2016年8月22日月曜日

摂心終了。

 約1週間の摂心から戻ってきました。とても充実していた分、日常のコンピューター世界に戻るのがなんと億劫なこと… 携帯なんかなくても全然平気、ブログを書くのも億劫なわけで、いつも読んでくださっている方に申し訳ない限りです。あと、数日すれば、復活すると思われます。w 今しばらくお待ちを ; )

2016年8月16日火曜日

残暑お見舞い申し上げます。

 みなさん、お元気ですか。ドイツの学校の夏休みも終わりに近づいています。先日、日本への一時帰国からドイツに戻り、これから5日間の摂心に参加してきます。夏休み中は完全にネット世界から遠ざかっていましたが、またぼちぼち書き始めますので、どうぞよろしくお願いします。

2016年7月19日火曜日

ゴミ、またゴミ…

 ゴミ拾いしました。まずは私たちの野球場を。嬉しいことにあんまりゴミはなかったです。子供達がわんやわんやとゴミ拾いハサミを使いたがって集まってきました。やっぱり、ここがポイントなんですよね。ゴミ拾いハサミを使ってみたいという。まあ、悪くない理由ですが、いつか飽きられるだろうな…と。
 そして、山にさて拾いに行こうかと娘と二人で意気込んでいた矢先、娘の部屋から出てくる出てくるゴミの山!腐ったバナナまで登場し、さすがの私も堪忍袋の緒が切れました。「まずは自分の部屋を綺麗にするのが先!!」ということで、ゴミ拾いはしばらくお預けです… あんまり細かく整理整頓、清潔第一を言いすぎるのもなあ、とここ1、2ヶ月何も言わなかった結果がこれです。いやはや、難しいですね…
 さてさて、今日から日本へ一時帰国です。時間ができるので、もうちょっとブログも書けるといいな、と。

2016年7月6日水曜日

子供がゴミ拾いをしたいと言い出した。関するお告げ。w

 今日もゴミ拾いネタです。今日、森の中でゴミ拾い隊の子供の集団を発見!在独20年の私ですが、初めて見ました。クラス行事でやってるらしく、30人ほどの4、5年生と思われるグループでした。これはもうなんかのお告げか?!とニヤニヤしながら、急いでいた私は自転車で通り過ぎました。通り過ぎた後、後悔。あー、ほめてあげればよかった。それぐらい立ち止まって声をかける時間はあったよなー。大人として反省。
 そして、今日は続けて更なるお告げが!w なんと、娘のお友達のHちゃん(ドイツの1年生)が、娘のゴミ拾い熱を聞きつけ、宿題の作文制作テーマとして書いたそうです。あまりにも嬉しいお話なので、ここに載せることにしました。そして、Hちゃんもどうやらゴミ拾いハサミを購入した模様。これはもう近日中に実行せねば… Hちゃんありがとう!作文できたらぜひ読ませてね。

2016年7月5日火曜日

子供がゴミ拾いをしたいを言い出した。

 まさにタイトル通りです。ここ2週間ほど、ゴミが拾いたくてしょうがないらしいです。ゴミ拾い用の道具が使いたくてしょうがないんだなということは感じています。この気持ちをどうやったらポジティブに実行できるか色々考えていました。zenzai53の宣伝も兼ねたお揃いのTシャツを着るとか、天使の羽をつけるとか…がしかし、考えるのをやめてとりあえずさっさと実行することにします。とりあえず、いつも歩く森の中のゴミを拾いながら、最後にフランクフルトが遥か遠くによくみえるピクニックエリアでご褒美のおやつでも食べようと思います。一緒に歩く方大歓迎! ; )
 
 

2016年6月26日日曜日

「幸せな自分」とか「本当の自分」とか…

 先日の勉強会のテーマは「現代と仏教」でした。仏教と現代社会におけるいろんなテーマとの関わりについて、本当に少しですが話しました。テーマはホスピスや、グリーフケアや、新興宗教、ニューエイジ、精神世界などなど。時には手厳しい批判もでたり、ちょっと共感をもったりと、様々な面から一緒に考えることができました。皆さんの日常の視点を少し広げる役にたっていれば幸いです。
 ニューエイジとか精神世界とかの話題となると、必ず出てくる「本当の自分」探し。どこか別なところにあるかのような自分。本当は違うはずの自分。本当は幸せになるはずの自分。と、限りなく「あるはず」のものを探す方法… いつもいつも何かを探しつづけて、疲れませんか?そもそも「本当の自分」ってなんでしょう。自分でさえもわからないことを、他人がわかるはずもなく、それをわかっているような言い方でセラピーを行っているセラピストに私は疑問をもちます。そして、そのようなセラピストは参加者から思うような驚きや共感が得られないと、「あなたはもっと自分自身を受け入れないとダメ」とか、参加者の責任にしてしまう。これって悩める人間の心を弄んでるとしか私には思えません。こうして、ニューエイジや精神世界の消費型のセラピーは、次から次へと本やらCDやらセミナーやらに手をつけることになる。せめて、雑誌の星占い程度の軽い気持ちでそれらに接しつつ、自制心をもって投資することをお勧めします。こういう私も学生時代にはまったことがありますが、残念ながら何一つ心に残っていません…

2016年6月6日月曜日

映画感想

 先週末はZen for nothingという安泰寺を舞台にしたドキュメント映画をみてきました。評価は横に置いておくとして、その後の監督への直接の質問会でちょっと首をひねりました。
 監督は日本における禅寺の一般摂心において、(1)参加費の有無 (2)男女一緒の摂心会 の有無に寺のあり方への良し悪しの基準をおいているように私には聞こえました。ちょっと反論させていただきます。摂心会において不当な金額を要求してくるようなお寺さんは、私の知る限り皆無です。もしもそのような要求をするようなお寺であれば、それはいわゆる金儲けの新興宗教団体か、ニューエイジ系の不思議大好き、或いはナチュラルなんちゃって集団でしょう。安泰寺のような、自給自足を可能とする土地を所有するお寺の方が日本全国には希少なはずです。ゆえに、信者や摂心会の参加者の方から必要最低限の経費を徴収するのは私は全く問題ないと思います。また、仏教における布施の精神を考えるとき、僧伽や寺の維持のためにわずかなりの金銭物質を収めることは、信者にとっては自分の心のよりどころ確保のためでもあります。これはもちろん、自分ができる範囲で行うべきで、普通一般の禅寺でしたらそれは百も承知の話です。
 2番目の男女一緒の摂心会について。安泰寺のように長期滞在が可能なお寺がどれだけあるかわかりませんが、、短期間であれば安泰時だけではなく日本中どこでもみつけることができます。監督が言っていたように、永平寺や安泰寺のように英語のホームページを用意しているお寺はかなり少ないでしょうが… 男女平等精神にかいている日本文化の中で、希有の存在として安泰寺を評価されていました。確かに日本は欧米に比べたら女性の社会進出力ははるかに弱いでしょう。しかし、仏教文化全体として男女平等精神を考えた場合、仏教は動植物に至るまで平等な宗教です。修行を行う上で、男女をわけるのは何も仏教に始まったことではありません。精神鍛錬と集中力を難しくするものであれば、それを排除する環境を整えて修行を行うのは、手っ取り早く効率的です。男女が一つ屋根の下にいたら、そうはいかなくなる可能性がなきにしもあらずなので、男女別にするのは仏陀生存寺からの習慣で非常に合理的です。
 映画の最後のほうに、カリフォルニアから来た若者たちが火を囲んで、ビールを飲んで、歌っている姿があります。これだけを見るとまさに、インドのゴアやヴァラナシあたりのバックパッカーを想像させられます。監督自身ビールに驚いたと言っていました。これについては映画の中でもうちょっと何か説明があってもいいような気がします。なぜなら、無法さんという素晴らしい住職がいるからこそ可能なことであり、そこには私たちが考える得るような説明と規律と信頼を超えたものがそこにあるはずです。そうじゃないと、《異国の山奥で摂心なんかやっちゃってるクールになりたい集団》を受け入れる、今時の禅寺にしか見えません。そう思う私が偏った見方をしているのでしょうが、無法さんの深い見識にあふれたお話を直接聞いたことがある一凡人としての正直な感想です。当日会場でドイツ語で意見するのが憚れましたので、悪しからず…

2016年5月24日火曜日

子供と差しで向かうこと

 昨夜は保母さんであり、一児の母である女性と坐禅をしました。坐禅後、いつものように楽しいおしゃべりの時間。昨日は、育児書の話に花が咲きました。私と彼女の意見は一緒。この世にいったい何冊の育児書があり、どれだけの母親がその通りにならないと擦った揉んだしていることか…育児書のとおりに育つような子供なんて一人もいないよね。子供なんて千差万別だし。良さそうな育児書探しと、それを読む時間と、その通りに実行してうまくいかなかった時と、がっかり感と、その後の著者への文句と、また良さそうな育児書探しと、全ての時間の総計を考えたらとんでもない時間数。その時間の間に子供と差しで向かい合ったほうがよっぽど時間の節約になるし、すくなくともすっきり感が違うよね、ということです。
 しかし、この「差しで向かう」方法が大問題。第一に子供を同じ土俵の人間として扱うこと。大人としてじゃないですよ…大人として扱うと、大人なんだからと押し付けがましくなってしまう。これが難しいんだよね、ということに。そして、その方法は観想(ヴィパッサナー瞑想)でやっていることを応用するのが最適ということに一致しました。とにかく自分と子供の身体感や感情の起こりを客観的に把握することに努める。何度もやるうちに、お互いに何が本当にひっかかっているのか、望んでいるのかが見えて来る。そうするとお互いに噛み合わない感情や思考の矛先のもとが見えるようになる。見えてきたらそれをまた客観的に把握して受容する。これだけのこと… それだけのことなんですけどね、これが良寛のようにはいかないのが我ら凡人。良寛のように100パーセント子供と向きあうこと、同じ土俵に立つことができたら、育児書なんかいらなくなりますね。

2016年5月20日金曜日

仏教勉強会開始!

 仏教勉強会がはじまりました。お茶をのみながら、あーだ、こーだと身近な素朴な疑問を投げあいながらの勉強会となりました。予定の時間をだいぶ超えてしまいましたが、充実した時間でした。
 海外にいると、日本ではなんとも思わなかったこと、特に宗教のことが気になり始めます。日本ではほとんど問われない、「あなたは何宗徒?」と聞かれてハッとした…という経験はみなさんあるのではないでしょうか?今回参加してくださった方々も、この経験を実際にして、ちょっと仏教に興味をもって参加を決めたという方々でした。
 勉強会で話題となったのは「即身成仏」と漫画「聖お兄さん」!いつか、「聖お兄さん」を読む会を実現したいと思います。とにかく中身が濃すぎておもしろいこの漫画…ある程度仏教やキリスト教の知識があると更に笑えることを保証します。
 勉強会への参加申し込みはまだ可能ですので、お気軽にご連絡ください。グループへの個人的アレンジも可能です。
 

2016年5月9日月曜日

逃げる場所

 3年生になって学校の授業が突然難しくなり、娘の成績が少し落ち始めました。学校から帰ってくると、いつもすぐに机に向かって宿題をしますが、その時間もだんだんと長くなっています。がんばっているけれど、やはりドイツ人の子供達より劣ってしまうのはもちろんドイツ語。算数の文章問題、理科社会、おまけに英語まで加わって、とにかく大変。1年生、2年生のころのようによい成績がとれなくて、本人もどうしたらよいかわからない感じ。幼稚園の時期がすっぽり抜けている彼女に、他の子供達と同じような語彙力や一般知識があるわけがなく、それでもついていかねばならず、とにかく毎日があっという間に過ぎていきます。がんばっているのに思ったようにいかなくて、最近は、わからないことは投げだし気味になってきました。かわいそうだけど、こつこつ努力するしかない…背中を押す私も、時々堪忍袋が切れる時があります。例えば、先生に向かって「えー、また英語の授業ー」と文句をたれた時とか、テストがあるのをわかっていて私にも知らせず勉強も全くしなかった時とか。
 すると娘は最近こんな返事をするようになりました。「孤児院に帰りたい、そこで他の子供と一緒に住む」とか、「ハイチのお父さんとお母さんは色んなものをいっぱいくれた。ママとパパよりずっとよかった。」とか。もちろん、彼女はハイチの両親のことはほぼ覚えていません。世界一貧しく危険なスラムで育った彼らが、頻繁に子供に物を与えることもありえないでしょう。はじめは彼女の気持ちを思って、ハイハイと聞いていた私も、先日あまりにも調子に乗ってきたので、「あんた、本気で言ってるの!?孤児院ってどういうところか本当にわかって言ってるのっ!?いい加減にしなさいよっ!どんな思いであんたのお父さんとお母さんがあんたを手放したかわかってんの?!」と声を上げてしまいました。頭の中での逃げ場所になっているハイチが当時どんな状況だったか全くわかっていない彼女に、ビデオをみせようとすると「見たくない」と言います。そうなんです。彼女はわかってるんですよね、なんとなく。ハイチが夢見るようなところじゃないということを。しかし、故郷や実の親はきっと素敵で、勉強もここよりうまくいくににちがいない…と。いつかはこんなやり取りがくるだろうなあ、とは思っていました。それも彼女が思春期くらいに。ちょっと早かったなあ。
 これを彼女の妹弟の養親に話すと、「ショックだったでしょう、大丈夫?」と、心配顔。「それが以外と冷静なんだよね私。」これは正直なところです。なんでかな?時々、養子縁組に関する日本のドキュメントなどで、いかに実の母親とひけをとらない母親であるべきかで悩む養子親の話や、血の繋がりのないことをいつ打ち明けるべきか、で悩む親の姿をみます。私はそのどちらもほぼクリアしているから、実の親のほうがよかったと言われても冷静でいられるのかなと思います。なぜなら、私は本当に申し訳ないほど母親らしくない。母親らしいことは普段なにひとつしてあげていない。鼻からこの母親らしくあるべきことに白旗をあげているわけです…
 この件の波がそろそろ引き始めた頃、娘に聞いてみました。「今でも孤児院に帰りたいの?」すると、「ママごめんね。本当は全然そう思ってないの。」「どうした、なんかあったの?」と聞くと、学校で友達がいじめっ子に仕返しをしているのを見て思いついたとのこと。詳細は忘れてしまいましたが、恨みは相手の急所を静かにさして報復する方法を、こうやって人間は実践的に学んでいくのだなと妙に感心しました…
 私の立ち位置は母親というよりも「世界一のなんでも話せる母親みたいな下宿のおばさん」かな、と思います。最近は、娘も冷静に正直になんでも対応するようになりつつあり、ま、これでいいのかな、と思うようにしています…
 

2016年4月27日水曜日

喜怒哀楽満載の日々だからこそブログ書けませんw

 またまたブログアップがかなりの長い間滞ってしまいました。言葉を世間に発するということイコールそれに責任をもつことです。これはブログも然り。しかし、ここ最近は責任をもてないような(笑)私的な喜怒哀楽満載の日々だったので、ブログから遠ざかっていました。そのうち、ちょっとブルーな気分にさせられた出来事は、知人の外国人(ドイツにおける外国人です。私もその一人。)が思いっきり政党AfD(右寄りです…)を支持していて、咄嗟に「まじ?冗談?」と聞き返してしまいました。私のリアクションで火がついた彼女は演説をはじめ…「あんただって外人じゃない。そんな集会に顔だしたら刺されるよ。」と冗談半分、本気半分で反応したバカな私はさらに1時間個人演説を聞く羽目となりました。この話題は深入りしないでおきましょう…
 その反対にハッピーな出来事は、娘からこんな手紙をもらいました…日本語に訳すと、「月曜の朝からママと子供坐禅したいから、はやく起こしてね。」最近学校に行く前のミニ坐禅タイムがご無沙汰だったので、娘に嬉しい喝を入れられた気分でした。

2016年3月21日月曜日

教養としての仏教勉強会

 日本ではまったく普通のことである「無宗教」も、海外では「不寛容」と受け取られることも多々有ります。信じる信じないは脇に置いて、とりあえず日本文化の根底を支える仏教についての基本を一緒に学びませんか?5月11日より4回に分けて、宗派を超えた仏教の勉強会を開きます。お茶を飲みながらの気楽な少人数の会です。詳細はホームページよりご参照ください。http://www.zenzai53.com/werbung

2016年3月18日金曜日

震災5年 メディアを通して思うこと

 3月に入ってしばらくブログ更新が滞ってしまいました。震災5年目ということで、あちこちのメディアで被災地の今なるものが取り上げられ、しばらくネット漬けでした。そして、5年目という区切りの年にあたり、至る所でドキュメントフィルムが上映され、テレビでも特集が組まれています。久々に故郷を映像とコメントを通して見てみると、なんとも言えない感情が沸き起こります。
 5年の節目に阿部首相は、いろんなところに出没して復興をアピールしてますが、実際、復興が進んでいるところにしか顔だしていませんよ。復興が進んでいない土地のほうが多数ですが、そちらに顔を出す勇気はもちろんないですよね。自民党の皆さん、震災当時双葉町の被災者のデモに雁首をそろえて復興を誓っていましたが、あれはどうなったんですか?結局ただの政局奪還のためのプロバカンダだったのですね。とっくに予想はしていましたが。もっと言わせて貰えば、オリンピックよりも復興のほうに時間も税金も使って欲しかった。オリンピックで日本の復興の様子を世界に見せて、何か変わりますか?東北人がいつまでもじっと我慢して、世界にお礼の言葉をむけるだろうなんてシナリオはお断りです。そしてまたオリンピックを理由に、被災地に浅はかな知識しか持ち合わせない取材班が押し寄せるほうが迷惑です。そして東京電力、被災者への補償を自分の客から少しづつこっそりと徴収してゆく手法は、まったくもって賊徒です。
 
 ちょっと落ち着いて… ドイツの映画監督ドリス・ドリーも福島を舞台に映画を製作して昨日公開なりました。鑑賞後の感想をここで報告します。

 

2016年3月10日木曜日

感謝の気持ち

 先日の坐禅会で、参加者の方が「感謝の気持ち」をいつも高めることはできないだろうか、とおっしゃっていました。普段、子供と接する時にイライラしたり、他のお母さん方と自分を比べてしまったり、旦那とうまくいかなかったり、毎日が葛藤との戦いだと彼女は言います。けれど、自然の中を歩いている時は、そんなことをふっと忘れてただ、「今、ここ」にいることを実感できて、感謝の気持ちが湧いてくる。その感謝の気持ちはいつしか家族の存在にむかっていく。どうしたらこの気持ちを持続させることができるだろう、とおっしゃていました。
 彼女のような経験をしたことがある人間はたくさんいると思います。自然のなかにいる間は感謝の気持ちが持続できても、普段の生活に戻るとあっという間に、いろんなモヤモヤした葛藤の嵐とともに吹き飛んでしまう。どこか嵐に巻き込まれない安全地帯を確保できれば一番いいのですが…
 人間の心の動きをみごとに記した仏教論書「大乗起信論」は、このような心の動きを海にたとえています。月が輝くおだやかな海面、わずかに動く小波、あるいはサーファーが喜びそうな大波、そして喜べない津波…と、海の表面は心の動きに合わせて動いています。がしかし、荒れた海面から深く潜れば、そこは静けさをたたえた別世界。同じ「海」でも、全く違った顔を見せています。
 感謝の気持ちは、心の海面に漂っているだけではなんだかよく実感がわきません。波に逆らわず身を任せることで体力温存し、そこから潜って上を見ると状況がよく見えます。これと似て、自然の中でふと感謝の気持ちが湧いてくるのは、自分を自然に任せ、自然と一体となった時に、人間関係の違った側面が見えてくるからのように思います。
 外的な安全地帯を自然の中に見出せるとしたら、内的な安全地帯はもう自分の心の中、その持ちようしかないように思えます。それは日々の坐禅での訓練で得られる、中道を見る感じる気づくという実践が心の安全地帯となってゆくように思うのです。

2016年2月25日木曜日

爆弾と「死にたい」

 世界のテロ事件への関心は我々大人だけではなく、小さな子供達の間にももちろん広がっています。もちろん、子供達へは「刺激的」な部分だけが、子供用に脚色されて伝わってゆきます。
 先日、娘の担任の先生からめずらしく電話がかかってきました。話を聞いてみると、授業中に娘がトイレに行きたいというので行かせた。戻ってきてみると泣いた後で目が腫れている。どうしたの?と聞くと、なんでもないと答えた。休み時間になって、一人の時に再度尋ねてみると、「言わないほうがいい。」と娘が答えたところ、先生がさらにねばってたずねると「ハイチに爆弾が落ちて、ハイチのお父さんお母さんが死ぬかもしれない。」とのこと。なぜそう思うのか再度たずねると、「クラスのみんなが爆弾のことを心配している。」と答えたそうです。
 この件についてのポイントは二つ。1爆弾に対する恐怖 2ハイチの両親について話すことへの躊躇 でしょうか。
 我が家でテロや爆弾が子供との会話で話題にのぼったことは一度もありません。テレビは週に多くて2、3時間程度、子供番組を選んで見せています。私自身は子供が就寝した後のニュース番組をみる程度です。娘が自分でテロに対する知識を蓄えたとは思えません。いらぬ恐怖を蓄える前に、テロと爆弾については私の口からわかりやすく伝えました。
 そして2番目の件については特別に対処はしていません。家の中ではいつもオープンに実の両親について話したい時は話させているし、否定も肯定もせずに、うんうんと聞いています。ただ、以前ブログにも書きましたが、娘の「家族意識」に対する心無い子供達の反応に対して、家族に関する発言に消極的になってきたのかもしれません。
 この爆弾話からしばらくたって、今度は「死にたい」発言が飛び出してきました。ほんの些細なこと(食べたガムをベットの足にくっつけていた)でパパから怒られた後のことでした。この発言にはちょっと敏感に反応した自分に気づきました。私が高校生の頃、親友を自殺でなくした際、彼女は死ぬ数週間前にこの言葉を時々漏らしていました。その思い出がもちろんすぐに頭によぎりました。どう反応するべきか悩む自分にももちろん気づき、子供が幸い「まずいこと言っちゃった」と感じていることにも気づき、とりあえず坐禅開始の合図のように3回深呼吸をしました…そして、これは簡単に説明しちゃいけないと思い、とりあえず1時間ほどどう説明するべきが考え、話を切り出しました…

2016年2月23日火曜日

よく言った、ローマ法皇。

 ローマ法皇から話題の赤っ恥暴言おっさんへの発言ですが、よく言ったと思います。宗教指導者として、彼がキリスト教の名前を語るのをもう我慢できなかったんでしょうね。壁じゃなくて橋をかけることのほうが大事。これって宗教なんぞ関係なく、人間関係における基礎ですよね。そして、法皇への反発発言がこれまたもう糸の切れた凧のごとく飛んでいっちゃてるので、もう反応するのも面倒くさくなりました。今度、知人のアメリカ人達にどう思っているのか、ぶっちゃけ聞いてみよう…

2016年2月18日木曜日

ネットが落ちて学生気分

 男性国会議員の育児休暇取得がんばれと思っていた矢先にこれですものね。なんだかなあ…パファーパンスだったと思われてもしょうがない。辞職後は、きっちり育児やってくださいよ !

 ここ数日、家ネット環境が完全に落ちていました。どこか発展途上国に旅行に行く時は、ネットのない環境はどうってことなくすんなり溶けこめるのですが、自宅で繋がらないというのはとても久しぶりで、はじめは不便を感じました。しかし、「大学時代はネットなかったよなー」「とにかくなんでも電話、ちょっとよくてポケベルなんてあったよなー」「意味なく誰かの家に行ってずっと無駄話してたよなー」「なんでも図書館で調べたよなー」「卒業後Niftyメイルが繋がった時の興奮ったらなかったよなー」と、学生時代のころを思い出していました。ネットがなかった時代、学生の私は夜の空き時間を何をしていたか?テレビ、レンタルビデオやCD、読書、長電話、飲み物一杯でどの店だろうと友達と居続ける、こんな感じでした。一人の時はレンタルビデオ鑑賞と読書にさいた時間が多かった気がします。今考えれば、私の雑学知識がたっぷり蓄えられた時期でした。それに比べて今の生活は…自ら興味を探しだすことがとても下手になってしまった気がします。
 結局ネットが落ちている間の夜はここぞとばかりに、読みたかった本を2冊一気に読破しました。なんだか、とても懐かしい感覚を覚えました…

2016年2月12日金曜日

Bald 5 Jahre vorbei... 東北大震災から5年まであと1ヶ月

 仙台の地元新聞「河北新報」は月命日の毎月11日には、震災に関連するアーカイブ記事が全て読めます。当時のことを忘れないように、時々見ています。

Bald werden 5 Jahre nach dem Natur Katastrophe in meiner Heimat. Hier ist die Link von einer Lokale Zeitung. Man kann viele Archive anschauen. Auch in Englisch ; )

http://kahoku-archive.shinrokuden.irides.tohoku.ac.jp/kahokuweb/?0


2016年2月10日水曜日

難民と野球計画…挫折

 かれこれ2ヶ月以上、難民に野球を教えるというプロジェクト実行を試みましたが、残念ながらほぼ挫折状態。あきらめかけています。
 理由は二つ。クラブ会員になるための資金援助が市から未だにおりないこと。市はてんやわんやの忙しさで、スポーツなど二の次、三の次、それ以下という状況。そして二つ目は宗教上の理由からくる難問。このプロジェクトにあたって、対象を女性にしました。というのも、男性はサッカークラブからの同じようなオファーがあり、すでに週に二日プレーする機会があるためです。彼女たちの希望で「女性だけ」という条件で体育館で始める予定でした。しかし、話してみると「男性に見られることもダメ」とのこと。これはちょっと難しい。公共の体育館を他のスポーツクラブと共有しているため、男性がたまたま通りかかったり、ちょっと声をかけあったりなどということは日常茶飯事。気は進まないけれど、ドアの鍵をしめてどうにか避けることはできるかもしれない…と思いつつ、資金援助をまつうちにそろそろ外での練習時期になってきました。冬季中は、我々正規チームが体育館を使用していない時間帯をねらってのプロジェクトを考えていました。しかしさすがに、野外の野球場をドームのように覆いつくすことはできません。更に、夏季からは女子チームに引き継ぐつもりでしたが、女子チームのコーチは男性。私は少年野球のコーチであり、男の子たち、更にヘルプのお父さん方が当然のごとくいつも一緒。
 なんだかなあ…考え込んでいます。

2016年2月2日火曜日

言葉が素通り

 今日は鈴木俊隆のエッセイを読みながら二人のお母さん方(ドイツ人と日本人)と坐禅会がはじまりました。テーマは「子供とコミュニケーション」。ここ最近、よかれと思って言っているだけど、結局余計な言葉が混じって子供を怒っていたり、或いはどうせ右から左に聞き流していることを知りつつ同じ調子でこれまた叱っていたり。そんなことが続きました。参加者のお二人もまさに実際に経験していること。これはまさに、言葉が素通りしているのです。もう、怒ろうが叱ろうが言葉が子供の心に命中しない。だから、何度も同じことの繰り返し。あーあ、だんだんむなしくなってきます。今日はこれをテーマに坐りながら、客観的な事態の把握を試みました。
 そして気がついたこと。全くもって「今、ここ」にない心で子供に話しかけていました。過去のことをただ思い出して怒ったり、未来にまだ起こっていない悪いことへの忠告だったり。更に、あってはいけないことですが、「相手に話す」ということに集中していませんでした。例えば、茶碗を洗いながら叱っていたり、ご飯を食べながらぶつぶつ注意したり。
 二つのことを「心から」集中してできる人間はほとんどいないでしょう。何かをしながら相手に大切なことは伝わりません。手を止め、相手の目を見て話す。そして、相手の声を聞く。こんな単純なことをすっかり忘れていました。「今、ここ」に集中する。坐禅で練習していることをそのまま活かせばよいのですよね。反省。
 

2016年1月27日水曜日

君のお母さんは本当のお母さんじゃないんだよ。

 娘が同年代の子供と一緒にいると、時々びっくりするような冷たい言葉を子供が吐き出すことがあります。例えば、
 「あのさ、君のお母さんは本当のお母さんじゃないんだよ。それって、どういうことか本当にわかってるわけ?」と、ねっとりと冷たく言い放つ男の子。
 「冬休みは家族と過ごしたっていうけど、どの家族のこと言ってるわけ?」娘が質問に答えられずキョトンとしていると、「黙ってうやむやにしないでよ。」「あ、もういいわよ。」と一人で勝手に会話を終了してしまう女の子。
 こういう言葉を小さな子供の口から聞くと、唖然とすると同時に悲しくなります。そしてこの子達の家庭での会話が見えてきます。あー、そういう風に私たちのことをこの子の親御さんは見ているのね、と。
 我々大人でさえ、「本当のお母さんじゃないことがどういうことか。」を生理学的に適切に説明できても、倫理哲学的に正しい説明なんてできやしない。「家族とは誰か」という質問もこれまた同じこと。これらをもっともらしく子供に語る大人は掃いて捨てるほどいるでしょう。そして、その答えのどれもが自己経験や防衛からくる「あるべき姿」を倫理哲学的に装飾したもの。子供はそれを丸呑みして、ここぞとばかりに当人を相手に試してみます…試してみるのはいいけど、親から聞いた通りの答えが返ってこないと困り果てます。
 上記の子供達に、娘に変わって私が返した言葉は、
 「知ってるよ。この子の本当のお母さんも私も同じオナラをする人間ってこと。同じようにご飯作ったり、悪いことしたら子供のこと怒ったり、一緒に遊んだり、泣いたり、笑ったり。もちろん、バカなことやらかしたらおやつをあげないのもね。君のお母さんも同じでしょ?今日は家に帰ったらおやつないんじゃないの?」これを聞いた男の子、口をあけてキョトン。 
 「冬休みはこの近くに住んでいる家族、おばあちゃんやいとこ達と過ごしたの。遠くに住んでいる家族とはいつかそのうちね。」女の子も同じようにキョトン。 
 どちらの回答も私にとっては事実です。ちなみに、まだまだ修行の足りぬ私は、これを側にいた彼らの母親の眼前で聞こえるように言いました… 

 
 

2016年1月19日火曜日

投手に集中力強化と呼吸指導 Mental und Atmung Training für Pitcher

 日曜日に精神面をテーマとした野球ソフトボールコーチの講習会がありました。子供に教える立場として、興味津々で参加してきました。講習会前半は、忘れかけていた基本事項を復習した感じです。そして後半、じゃあ集中力強化としての実践に何が効果的かという話になり、呼吸の重要性や、動きを客観的にみるなど、まさに私が指導してきたことがそのまま取り上げられ驚きました。そして次回、ワークショップの提供提案をして帰って来ました。
 その後、初心に戻り投手候補の子供達に改めて集中力強化と呼吸指導をしたところ、驚くほどの進歩がみられ嬉しかったです。今の子供達にはこの強化法は効かないかな、話をまともに聞いてくれないかな…と、勝手に決めつけていたことを猛反省。もっと本気で取り組むことに決めました。13歳〜15歳の新人投手陣の成果は、シーズン開始後またご報告いたします。

2016年1月13日水曜日

Etwas fehlt nach dem Achtsamkeitskurs...2 坐禅だけでは欠けること2

(eine Folge von Getern...)(昨日の続き…)

Der 8fache Edle Pfad war die erste Predigt von Buddha und bestehen aus 8 richtige Praxis, um Leiden zu erlöschen. Die Inhalt ist ;

八正道はブッダの初説法で説かれたもので、苦を滅する為の八つの実践項目からなります。その内容は;

1.正見 Vollkommene Erkenntnis : Das Akzeptieren des Gesetz von Ursache und Wirkung 全ては縁って起こるということを正しく見ること。要するに四諦を正しく見ることです。
2.正思 Vollkommene Gesinnung : Die Entsagung, keine Bedürfnisse zu hegen, nicht habgierig zu sein, und keine Tat zu vollbringen, durch die jemand geschädigt werden kann.
3.正語 Vollkommene Rede
4.正業 Vollkommene Verhalten
5.正命 Vollkommene Lebensunterhalt
6.正精進 Vollkommene Anstrengung
7.正念 Vollkommene Achtsamkeit (Mindfulness) 
8.正定 Vollkommene Konzentration (Meditation)

Alle Leiden entstehen aus irgend Aktionen mit Körper, Mund und Geist. Das ist wahr. Deshalb versuchen wir diese 3 Aktionen „vollkommen“ lassen, um „persönliche Sachen“ zu verbessern.

全ての苦は身体、口、そして意思の何らかの活動によって起こります。これはまぎれもない事実です。ゆえに、これら3つの活動を「正しく」することで、「私的なもの」を改善しようとするのです。

Wir merken hier schon, dass „Achtsamkeit“ und „Konzentration“ nun von Teile von 8 Pfad sind. Nur mit beiden können wir nicht „persönliche Sachen“ verbessern. Wir müssen andere 6 Pfad ausserhalb dem Meditation Raum beschäftigen ; ) Und so können wir uns endlich dem „gesunde ICH“ nähern.

ここですでに気づかれた方もいると思いますが、「マインドフルネス」と「禅定(精神を統一すること)」は八正道の中の二つに過ぎないのです。これら二つだけでは決して「私的なもの」を改善することはできません。結局、他の6つも坐禅室の外で一生懸命がんばらないといけないのです。こうしてやっと「健康な私」に近づくことができます。

Also, was ich seit gestern sagen wollte ist, dass wir nach dem MBSR oder Achtsamkeitskurs selbst viel beschäftigen müssen.
Dafür lernen und quatschen wir hier bei mir zusammen. Ich und alle Teilnehmer sind gleich „guten Weisen“ ; ) —-> Was ist „guten Weisen“ ? bitte schau die erste Seite von meiner Homepage an. www.zenzai53.com

私が昨日言いたかったことは、MBSRにせよマインドフルネス講座にせよ、その後自発的にがんばる必要があるということです。
その為に、ここzenzai53の坐禅室で皆さんと一緒に勉強したり、ワイワイガヤガヤしています。私も参加者の方も、結局皆「善知識」なので…「善知識」とはなんぞやと思われた方はどうぞホームページをご覧ください。http://www.zenzai53.com/home

2016年1月12日火曜日

Etwas fehlt nach dem Achtsamkeitskurs...1 坐禅だけでは欠けること1

Heute schreibe ich endlich Mal in Deutsch! Einige Leute haben berichteten, dass der google Übersetzer leider nicht gut funktioniert. Tja, Japanisch ist echt schwierig zu übersetzten. Wir verwenden fast kein "Hoch" Japanisch, die man in der Sprachschule lernen... Und Computer Programm, inkl. meiner Siri, kann natürlich nur Hoch Japanisch merken. Es ist aber gut so, dass Computer nicht alles wie Menschen arbeiten können ;)

今日は久しぶりにドイツ語で書こうと思います。何人かの方からグーグル翻訳機能がとんでもない翻訳してるよ、との報告を受けました。日本語の翻訳プログラムはほとんどあてになりません。私たち日本人は、語学学校で習うようないわゆる「標準語」を普段使いませんからね。Siriを含めてwコンピューターはこのきちっとした標準語しかもちろん認識しません。けれど、コンピューターが人間のように働けないところがいいんですよね。

heute will ich über die ganzheitliche Meditation schreiben. so ein grosses Thema muss ich eigentlich als ein Lebenswerk überlegen. Aber wegen dem Boom von Meditation will ich schon meine Meinung hier bisschen äußern.

今日は、坐禅(或いは瞑想)全体について書きます。恐らく一生かけても答えが出ない、難しいテーマです。けれど、昨今のブームに思うことが多々あり、少し意見を述べようと思います。

Bei mir gibt es paar regelmässige Meditation Teilnehmer, die schon Mal den MBSR oder den Achtsamkeitskurs besucht haben. Die meisten Leuten finden sehr gut den Kurs. Und viele erzählen gleichzeitig, dass dort irgendetwas fehlt...

私のところで坐禅をしてゆく方の中に、MBSRの8週間のコースやその他のマインドフルネス瞑想コースに参加経験のある方が多くいます。彼らのほとんどがそれらのコースをポジティブに受け止めています。そして同時に、「なんか足りないんだよね」という感想も持っています。

Dort fehlt "persönliche Sachen". ich schreibe hier die Zusammenfassung, was ich von den Teilnehmer gehört habe -> -> Beim Gruppen Kurs lernen wir die allgemeine Methode zu meditieren und hören die Anweisungen, die von Dharma basiert ist. (Dharma ist die wahre Lehre, die Weisheit, das Natur Gesetz.) Wir versuchen die Sachen "objektiv" betrachten. Wir lernen auch "ichlosigkeit". Wir wollten eigentlich "persönliche Sachen" verbessern, deshalb haben wir den Kurs teilgenommen. Aber alles klingt wie "Nihilismus"! Müssen wir einfach alle "persönliche Sachen" vernichten ????? Nein, nein. Der Lehrer meint nicht so. wir wissen es... Aber trotzdem, was und wie sollen wir zu Hause, im Büro, in der Schule, mit meiner Familie oder Freunden KONKRET anfangen ????........ so erzählen viele.

その「なんか」というのは「私的なもの」だそうです。彼らの言う事をここにちょっとまとまてみます。→ グループコースではいわゆる瞑想の方法や、それらに関する仏法を基にした心得を学ぶんだよね。そんでもって、いろいろな事象を「客観的」にみたり、いわゆる「無我」とはなんやらとかを学ぶわけ。私は「私的なもの」を改善したいからコースに参加したんだけど、何だか結局ニヒリズムにしか聞こえないのよ。「私的なもの」は結局忘失しろってことなのって思っちゃうわけ! けど講師が言っていることはそういうことじゃないってのはわかってるの。わかってるんだけど、家や会社や学校や、家族や友達に対して、じゃあどうやって具体的に対処すればいいわけ?……。ということを多くの方がおっしゃっています。

"Objektiv" die Sachen zu betrachten oder "ichlosigkeit" zu erleben sind schon wichtig. Aber bevor wir solche Sachen zu erlangen möchten, müssen wir "gesunde ICH" finden. Hier meine ich nicht körperlich. "gesunde ICH" ist immer offen für verschiedene Leuten, Situationen und sogar alte Erlebnis. "gesunde ICH" kann bereit von solche Sachen immer etwas neues entdecken. "gesunde ICH" hat sogar den Mut, um angenehme und abhängige Sicht zu verlassen. Aber dann, wie können wir "gesunde ICH" sein?

「客観的に」に事象を認識することや、「無我」とは何ぞやを「なんとなく」経験することは悪いことではありませんし、むしろ大切といえるでしょう。けれど、それらを達成することばかりを追うだけでは、いわゆる「健康な私」は見つけることができません。これは身体的なことを言っているのではありません。「健康な私」はどんな人間、状況、そして過去の経験に対してもオープンです。「健康な私」はそれどころか、そこから更なる新しい発見をすることにも躊躇しません。また、「健康な私」は偏り切ったものの見方と決別する勇気があります。とはいえ、そんな「健康な私」はどうやったら見つかるのでしょうか。

Ohne "ICH" können wir zuerst keine Idee bekommen, dass wir meditieren wollen. Und nach der Meditation kehren wir immer wieder zurück zu "ICH". Diese "ICH" könnte besser "gesund" sein, dass wir nächste Meditation statt mit Zwangsdenken sondern mit Freude auftreten können. Wenn wir immer weiter mit "gesunde ICH" meditieren, können wir irgendwann unsere "persönliche Sachen" objektiv betrachten, sogar davon "ichlosigkeit" erleben. Und endlich können wir verstehen, dass "gesunde ICH" und "ichlosigkeit" eigentlich eine Einheit ist...

「私」がなければ、まず坐禅を組もうなどという考えは起こりません。そして坐禅の後には、いつもの「私」にまた帰ってゆきます。この「私」が嫌々次の坐禅に臨むのではなく、嬉々として参加できるように「健康」であることに越したことはありまん。このように私たちが「健康な私」として毎回坐禅するならば、いつか「私的なもの」を客観的に認識し、さらに「無我」まで体験できるかもしれません。そして終には、「健康な私」と「無我」が実はひとつだったということを認識する可能性まであるのです…

Also, was bauchen wir denn für "gesunde ICH" ? Die Antwort ist der 8fache Edle Pfad ! klar, natürlich. Das ist der Unterschied zwischen buddhistische Meditation und alle andere Meditations.

それじゃあ、「健康な私」には何が必要なのか?答えはもちろん八正道です!そしてこれが、仏教瞑想と他の瞑想法との大きな違いでもあります。

ich habe heute sehr Muhe gegeben alles in Deutsch zu schreiben :) Danke, dass ihr bis am Ende gelesen habt. Über den 8fache Pfad erkläre ich morgen... ;)

最後まで読んでくれてありがとうございます。続きの八正道については明日取り上げます。

2016年1月8日金曜日

テキサス州 公然で本気仮装大会 条例成立

 テキサス州での、「本気でカウボーイ&お巡りさん仮装大会」条例成立という、とんでもないニュースが入ってきたのが最近。腰に銃をぶら下げた若い男性が、「これで自分と家族を確実に守ることができて嬉しい」と満面の笑み。銃をぶら下げる前に、あなたの頭の中にできた腐った風穴を埋める努力をしてほしい。銃を使う、使わない、危ない、危なくない、今やらなきゃ自分がやられる、いややられない、この一線を引く基準はどこにあるのか?腰に銃をぶら下げることで、日常生活が本当に安全になるのか。その基準全てが、腐った風穴のある脳内で感じたものをたよりにしている。その反対に、オバマ大統領の涙に感化する人間の頭の中にはこの腐った風穴はない。そんな彼らに対して「感情論では解決できない」ともっともそうなことを言っている方々、あなたたち不安や恐怖も感情ではないのか?そしてあなた方のほうが、感情論からくる極端に走っているだと思うのだけど。どこからその他人恐怖症が生まれてくるのか、深く深く内省し、また現実的にそしてオープンに考えてほしい。オバマがんばれ!!

2016年1月4日月曜日

ヨーダ

 どこもかしこもスター・ウォーズ一色の年末年始です。私は子供のころ何本か見た程度で、物心ついてからは特に見たいと思ったことはありません。ちなみに007は何度も何シリーズも全部見てやろうと試みましたが、一度として最後まで寝ずにいられたことはありません。これを話すと大体の人から変人扱いされます。脳内の興味スイッチが入らないんですよね…映画は大好きなんですが。しかし、今日ちょっとスイッチが入りました。というのも、ヨーダってむちゃくちゃ仏教のお話ししてるんですね。w ヨーダの名言とやらをラジオで聞いていて、「なんじゃそりゃ仏教じゃ」と思ったまでです。

2016年1月2日土曜日

新年おめでとうございます。frohes neues Jahr !

 新年おめでとうございます。今年も爆竹とロケット花火の煙にまみれて、友人たちとともに新年を迎えました。新年を迎えた気が今年もしません。w 元旦は主人と娘と3人で初座禅。数回に分けての70分近い座禅でしたが、娘が経行をふくめ、全回座り切ったのには敬意を示さずにはいれません。娘にしてみれば久々の座禅でもあったので、あっぱれです。先日の映画館でも同じようにじっとしていてくれたら、もっと映画を楽しめたのに!などとはもちろん愚痴りません…w 娘に反して主人は座禅を敬遠しています。しかし、元旦にかぎっては、東洋文化に敬意を示し(!?)初の長時間参禅。足が痛い痛いといいつつも、結局座り抜きました。お見事です。二人ともおつきあいありがとうございました。よい一年にしましょうね。