Translate

2017年12月21日木曜日

飽和状態のマインドフルネスブーム

 飽和状態を超えたマインドフルネスブーム。最近は関連記事さえ全く読まなくなりました。そのほとんどが全く原義とは遠く離れたマインドフルネスを扱うものだからです。もともと、マンドフルネスという言葉が、耳に心地よく一人歩きをし始めた時点でその危険性はありました。以前にも取り上げましたが、お客様の多くが「マンドフルネス」のグループッセッション時はなんとなくいい感じがしたけれど、家に帰ってみると元の黙阿弥だったと言われます。それは何故か。なんども繰り返しますが、マインドフルネスはもともと仏教の八正道の教えの一つから発展したものです。八正道は読んで字のごとく、八つあり、そのうち一つでも欠けたら全く意味をなさないのです。
 現在のマインドフルネスは自己逃避型の、様々な手のこんだツールになってきました。「マインドフルネスであることで、生まれ変われる」的なものです。これは本末転倒です。「生まれ変わる、新しいものを手にいれる」は、今ある自分をある意味否定することです。否定した自分の上に何かを重ねた所で、なにかの拍子に否定した自分が下から持ち上がってくるでしょう。あるいは、常に上に重ねてゆくことで否定した自分を必死で隠してゆく。こんな堂々巡り、疲れませんか?

2017年12月14日木曜日

清貧の思想2 シンプルな生死

 以前「精神の思想」という本が昔あった。というようなブログを書いたことがありますが、命の限りという視点に立つと、これまたこの「清貧」という言葉が身近に迫ってきます。
 癌宣告を受けて私がまずはじめたこと。これが「不要な物質を捨てる」ということ。もともとあまり物をもたないほうですが、更なる断捨離を実行しています。自分が死んだ後に、夫に処理させるのは申し訳ない。それだけの理由です。
 「清貧」ということばは、物がなく貧しくても清々しい、という現代的な読み方では間違った理解につながります。私欲がなく清々しいということが本来の意味です。ここには余計な「貧しくても」という意味合いは含まれません。
 常に止観(サマタとヴィパッサーナ)の意識下で日常を送れるようになると、おそらく日常の雑事が不必要になってくるのでしょう。今日着る服、お茶を飲む器、週末に見る映画、来年の夏休み…なんてことはどうもよくなるというか、今ここに特に必要差し迫るものではなくなってゆくのだと思います。そうすると、自然とシンプルな暮らしになってゆく。
 人間の生死は究極的にはシンプルです。生まれて、そして死ぬ。しかし、これがなんとまあ難しく、ありえない現代社会に私たちは生きています。できるだけシンプルにさらっと人生を締めくくりたいものです。

2017年12月12日火曜日

癌宣告から今まで役に立っていること

 今更ですが、癌宣告をうけてから今日まで、一番役にたったことは普段からの坐禅の習慣。私の坐禅会のお客様の中には癌患者の方もいらっしゃいます。いつも「今、ここ」に集中する練習を一緒に続け、「すごく役に立っている」という言葉を聞くたびにとても嬉しい思いでいました。しかし今度は私が実際に身を持って体験する番となり、普段の信条がどれだけのものか試験することとなったわけです。
 その結果感想は一言、「坐禅を続けていて本当によかった。」恐怖や不安で自分が持って行かれそうなときも、いつも「今、ここ」にあることに集中することで死の恐怖はやわらぎます。癌を持っていようがいまいが、私はいづれ死ぬ。そのことを今考えても実際何もならない。体が動かなくなって、できなくて後悔するであろうことは、今から少しづつ処理するとして、それよりも目の前のことを100%やり遂げる。なんでも100%全力でやるんです、洗濯物をたたむことでさえ!もちろん子供と話すときは、まるで宇宙人がはじめて発する言葉を聞きのがすまい、かのように真剣に聞く、これが役に立ちます。w
まさに「今、ここ」の集中です。おすすめします。興味のある方一緒に練習しましょう!(広告になってしまいますが…w)
 しかし、癌宣告からはや1ヶ月が経つ今、あの時の恐怖感、そして生きることへのメチベーションの消え去ることのなんと早いこと…ここ数日はもうごく普通の生活をしています。そして時々、いかんいかん、あの時の感覚忘れるな、真剣に生きろ!と喝を入れています。
 

2017年12月8日金曜日

ドイツのVereinの大切な役割

 手術後、野球ができない分ブログを書く時間ができました。w あんなにサボっていたブログですが、今は書きたいことがたくさんあります。腕の痛みが許す限り、少しづつ書いていきます。
 老年学を大学院の一コマで学んでいた頃、「地域で老いる」ことの重要性を知りました。要するに病気だからといって、病院や施設に合わせて引っ越さなくてもよい状況です。それにはもちろん地域の相互支援のコミュニティの存在が必要不可欠となってきます。ドイツではこのコミュニティはまさにVerein(日本語で言えば友の会、結社、愛好会、クラブの意味)につきます。ドイツ人3人集まればVereinを作ると言われるくらい、星の数ほどありますが、最小単位は3人。大きなものになると万単位のVereinも存在します。
 私が所属するのは野球クラブ。日本に比べたらまだまだですが、最近はヘッセン州最大のクラブに成長しました。そこで私は中学硬式野球のコーチをしています。そのため、野球に夢中の子供たちはもちろん、その親御さんたちとも、野球に限らず普段から交流があります。それも中学生チームにとどまらず、幼稚部、成人部までのみんなとです。そしてそのほとんどが、野球場近辺の住人です。(http://www.redwings-baseball.com)
 その彼らに今回は本当に助けられました。手術は全国大会3位入賞のお祝いも兼ねたクリスマス会前日にあり、雰囲気を悪くしてしまうなという私の思いは無用でした。とにかくありとあらゆるメンバーに助けられました。私がいない間のチームのフォロー、娘の練習の送迎、医療関係の様々な情報、家事のヘルプ等々。そしてこのようなヘルプは野球チームに限らず、座禅会や勉強会に普段から参加していただいている方からも頂いています。皆さん、心から感謝申し上げます。幸せ者です。
 この地域における相互支援はこれからの老齢化社会に不可欠です。それも金銭を介さない互助。普段から趣味や興味でつながっている仲間ほど、心を許しあえる人間はいません。そんな人間が、家からわずかの距離にたくさんいると思うと本当に心強いです。
 

2017年12月5日火曜日

命の限りにマジで気付いた時

 わかっちゃいるけど、日頃身をもって実感しないこと、しようとしないこと、横に置いて置こうとすること。それはいつか自分は死ぬということ。癌宣告はそれを「はい、あんた、目冷ましなさいよ、もうすぐよ。」と、言われている感じがします。それが、まさに第3者である医者から指摘されると、一気に目が覚めます。「とうとう、私にも来たか。」という感じ。この感覚、そして恐怖と後悔と取引の念が押し寄せてくる。知ってはいたけれど、本当にその通りです。そして、身近な大切な人間とのつながりが全く違った視点で見えてくる。そんな感じです。この感覚、本当は癌宣告とか突然の死別とか、頭を殴られるようなショックを受ける前から、日頃忘れずに持つべきものなんでしょう。これがあれば、世界平和はとっても簡単なものなんだろうな。

2017年12月4日月曜日

乳がん宣告と「あ、寒いんだ!」

 乳がん宣告を受けてから1ヶ月もたたないうちに、手術を終え昨日家に戻りました。その間のジェットコースターの如き感情の波はいうまでもありません。まだ手術した右側の胸、腕が痛いのであまり書けませんが、少しづつ書いていこうと思います。

 11月10日のガン宣告の次の日、私はウルムと言う南ドイツの街でワークショップの仕事が入っていました。家族は「大丈夫?本当に仕事できるの?」と心配した様子。しかし、ここで日常を捨て去ることほど不健康なことはない。迷わず早朝にICEに飛び乗り現地に向かいました。列車の乗り換えで15分ほどの待ち時間。その日はドイツ初雪の日。寒い!秋物のコートを着ていた私は、心底「寒い!」と震えました。そして、はっと気がついたのです。「あ、寒いんだ!」その感覚は坐禅時の気づきのようでした。なんのことはない、「寒い」と言う感覚が、「生きてるから寒い」と当たり前のことを、なんの装飾もなく気づいた瞬間です。その瞬間、笑みがこぼれました。「あ、寒いんだ!」