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2016年11月30日水曜日

若年層の自殺

 最近、若年層の自殺のニュースを以前に増して耳にするようになった。そこから考えることを幾つか断片的ではあるが、あげてみたい。
 いじめによる自殺は、学校側の責任という点に大体は問題点が絞られている。いったいいつまでそんな身も蓋もない責任の所存を突き詰めてどんな解決になるのだろう。加害者にも被害者にも家族がある。まちがいなくそこに、問題発生抑制の糸口があるはずだ。それも、加害者や被害者本人ではなく、その親、そしてその親の子供時代にまで遡ると、まちがいなく複雑な家庭環境と心理状況が見えてくる。
 若年層の事件発生後に、近所の人にどんな人間だったかインタビューを向ける大衆番組。そこで聞けるのは、「普通の人だった」「問題を起こすようには見えなかった」
というもの。これらの答えを聞くたびに、この人たちは、彼らと通り一遍の挨拶程度の人間関係しかなかったことを示している。さらに、「家庭のことだから口出しはできなかった」という答えからは、口出ししたかったけどしなくてよかった、いや、しとけばよかった、私に何ができたっていうのよ、というジレンマが垣間見えてくる。
 あなたはあなた。私は私。という自他が完全に独立するからこそ良しとする、キリスト教世界から生まれた認識を、日本人はその上辺だけを吸収してしまった。その傾向は、デジタルコミュニケーションの加速化と並行している。実際に人と目を合わせて話すことを心地よしとしない人間は、どれだけ増えているのだろう。これは、上記のように答える人間の多くに当てはまるのではなかろうか。そうではなければ、加害者の歪んだ家庭環境や、被害者の心の悲しみをこんなありきたりの言葉で説明できるはずがない。
 また、血縁関係のない関係者はどのように事件を受け止めているのだろう。私自身、17歳という多感な時期に親友に自殺されたので、彼らの胸中を思うとそばに寄り添わなくては、という思いが強くなる。否定も肯定もせずに話を聞いてくれる人、そんな人が彼らの周りに見つかりますように…
copyright@zenzai532016

 

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