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2016年3月10日木曜日

感謝の気持ち

 先日の坐禅会で、参加者の方が「感謝の気持ち」をいつも高めることはできないだろうか、とおっしゃっていました。普段、子供と接する時にイライラしたり、他のお母さん方と自分を比べてしまったり、旦那とうまくいかなかったり、毎日が葛藤との戦いだと彼女は言います。けれど、自然の中を歩いている時は、そんなことをふっと忘れてただ、「今、ここ」にいることを実感できて、感謝の気持ちが湧いてくる。その感謝の気持ちはいつしか家族の存在にむかっていく。どうしたらこの気持ちを持続させることができるだろう、とおっしゃていました。
 彼女のような経験をしたことがある人間はたくさんいると思います。自然のなかにいる間は感謝の気持ちが持続できても、普段の生活に戻るとあっという間に、いろんなモヤモヤした葛藤の嵐とともに吹き飛んでしまう。どこか嵐に巻き込まれない安全地帯を確保できれば一番いいのですが…
 人間の心の動きをみごとに記した仏教論書「大乗起信論」は、このような心の動きを海にたとえています。月が輝くおだやかな海面、わずかに動く小波、あるいはサーファーが喜びそうな大波、そして喜べない津波…と、海の表面は心の動きに合わせて動いています。がしかし、荒れた海面から深く潜れば、そこは静けさをたたえた別世界。同じ「海」でも、全く違った顔を見せています。
 感謝の気持ちは、心の海面に漂っているだけではなんだかよく実感がわきません。波に逆らわず身を任せることで体力温存し、そこから潜って上を見ると状況がよく見えます。これと似て、自然の中でふと感謝の気持ちが湧いてくるのは、自分を自然に任せ、自然と一体となった時に、人間関係の違った側面が見えてくるからのように思います。
 外的な安全地帯を自然の中に見出せるとしたら、内的な安全地帯はもう自分の心の中、その持ちようしかないように思えます。それは日々の坐禅での訓練で得られる、中道を見る感じる気づくという実践が心の安全地帯となってゆくように思うのです。

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