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2016年5月24日火曜日

子供と差しで向かうこと

 昨夜は保母さんであり、一児の母である女性と坐禅をしました。坐禅後、いつものように楽しいおしゃべりの時間。昨日は、育児書の話に花が咲きました。私と彼女の意見は一緒。この世にいったい何冊の育児書があり、どれだけの母親がその通りにならないと擦った揉んだしていることか…育児書のとおりに育つような子供なんて一人もいないよね。子供なんて千差万別だし。良さそうな育児書探しと、それを読む時間と、その通りに実行してうまくいかなかった時と、がっかり感と、その後の著者への文句と、また良さそうな育児書探しと、全ての時間の総計を考えたらとんでもない時間数。その時間の間に子供と差しで向かい合ったほうがよっぽど時間の節約になるし、すくなくともすっきり感が違うよね、ということです。
 しかし、この「差しで向かう」方法が大問題。第一に子供を同じ土俵の人間として扱うこと。大人としてじゃないですよ…大人として扱うと、大人なんだからと押し付けがましくなってしまう。これが難しいんだよね、ということに。そして、その方法は観想(ヴィパッサナー瞑想)でやっていることを応用するのが最適ということに一致しました。とにかく自分と子供の身体感や感情の起こりを客観的に把握することに努める。何度もやるうちに、お互いに何が本当にひっかかっているのか、望んでいるのかが見えて来る。そうするとお互いに噛み合わない感情や思考の矛先のもとが見えるようになる。見えてきたらそれをまた客観的に把握して受容する。これだけのこと… それだけのことなんですけどね、これが良寛のようにはいかないのが我ら凡人。良寛のように100パーセント子供と向きあうこと、同じ土俵に立つことができたら、育児書なんかいらなくなりますね。

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