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2015年9月9日水曜日

子供の表現力低下と英語…いじめ対策

 テレビやラジオ番組の中で、時々子供へのインタビューを聞くことがあります。この夏日本でももちろん同じように子供へのインタビューとその答え多く聞きましたが、なぜかしっくりこない感覚を覚えることが多々ありました。何故だろう…答えはすぐに出てきました。なぜなら、子供の答えがどれもこれもどこかで聞いたことがあるようなセリフだったから。例えば戦後70年という節目についての質問では、「後世に記憶をつないでいかなければならないと思った。」「二度と過ちを繰り返してはいけないと思った。」小学校低学年と思われる子供がこう答えています。確かにその通りです。しかし、この年の子供が、「後世に繋ぐべきもの」や「二度と繰り返してはならない過ち」を一体何と比較してそう答えているのか、と考えると、それらの答えがどうしようもなく薄っぺらなものに感じられてしまうのは私だけでしょうか。メディアはもちろん、そのような優等生的答えを「素晴らしい」と発信します。見ている方もそうだそうだ、こんな小さな子供がこんな立派な答えをするなんて素晴らしい、と同感するわけです。しかし、私には子供の「これを言えば正解」的な発想が見えてしようがありません。
 この話をある小学校の教師をしている友人にしたところ、それはしょうがない、とため息をつかれました。文部省がだす学習指導要綱に、あるべき理想の答えとして、そのような例はいくらでもみられる。そのような答えを引き出すための授業を教師は行っている、とのこと。なんだかなあ…
 最近では小学生が英語を学校で学ぶようになりました。多くの著名な学者がそれに対して異議を唱えています。その理由は、「まずは母国語で自分を表現できるようになることが最優先、外国語取得はその次」というものがほとんどです。外国語を話せるというだけだったら、私たちよりずっと発音の正確なコンピューター機器のほうに軍配があがるでしょう。けれど、話す内容や、テンポ、声のトーン、顔の表情、話の間、相手を思う度合い、等は千差万別であるはずなので、それはコンピューターにはまねできません。話す内容のないまま言葉ができても、相手と対等に渡り合うことはできないことは明らかです。
 今の小学生にどうしても英語を学ばせたいならしようがない。けれど、それと並行して、もっと自分自身の意見を探って表現する力を身につけてほしいと思います。正解、不正解などない、表現して相手に伝えるという作業の楽しさを学んでほしい。自分が一体なにを感じているのか、それを正確に言葉にする作業は簡単ではありません。100パーセント伝えることはまず不可能でしょう。けれど、だからこそ伝えようと一生懸命になる。ここから会話がはじまります。そのためにはまず教えるほうの立場がその練習をはじめないといけないでしょうね…
 100パーセント伝えることはできないけれど、話してみる価値はある、聞く価値はある、話してもいいんだ、聞いてくれる人がいるんだ、相手が自分を信頼して話しをしてくれている、と子供が思えるようになること。これはいじめの対策にも通じてくると思います。
 


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