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2015年10月7日水曜日

三重 高校同級生殺害事件

 「友人を救いたかった…」  加害者の男子生徒の言葉を聞いて、人間はここまで来てしまったか… という感じがします。この事件は、どこかで見聞した映画や漫画のストーリーを彷彿させるような気がします。けれど、映画ほどドラマチックではなく、登場人物に共感や嫌悪を覚えるまではいかず、どこか中途半端かつサラリとした感覚を覚えます。なんなんだろうなあ…   年少者による殺人事件が起こると決まって「命の大切さを伝えなければ」という世論が勃発します。方向的には間違っていないと思うのですが、まったく良い結果が出ていないのが現状です。どうしてでしょう。  友人を救うという行為は素晴らしいことです。しかし、その友人が死んでしまっては、その友人が本当に「救われた」と言えるのでしょうか。浅はかだよ、と多くの人が思っているのではないでしょうか。以前にも年少者による殺人事件について、ブログで書いたことがあると思うのですが(自分で見つけられませんw)、人物の等価物化が現代社会でとても進んでいます。これは、言葉や価値観がそのまま実存するように思い込んでしまうことです。もちろん万人共通のそのような実存基準などあるわけがありません。それなのに、各人が共通項を求めるためにいろんな歪みが出てくる。幸せ、つらい、痛い、大丈夫、ちょっと無理、きつい、かわいい、かっこいい、などなどちょっとした形容詞を例として考えてみると分かりやすいかもしれません。この男子生徒の場合、「救う」という定義が多くの人間の考えるものと大きくずれていたのは間違いないでしょう。同じように「救われたあとの状態」の定義も同じです。一般に、救われたというと、命が続いたとか、危機を乗り越えた、という意味が含まれる気がします。こんなにつらいのなら死んだほうがましだ、という状況においてでさえ、そこには死後の世界、いわゆるあの世や天国へとなんらかの形で精神の一部が続いていく希望のようなものがあります。果たして、この二人の高校生の間にはそのような感覚はあったのでしょうか。死んだ女子高生には、死後の世界への憧憬があったかもしれません… もしそうだとしたら、その彼女の憧憬をこの男子高校生は100パーセント共感していたとは思えないのです。死後の世界を共感できるもの同士が殺し合い(自殺)をするという事件が、過去に狂信的な新興宗教団体でありました。しかし、そのような方向に行くわけでもない。共感していたら、「ぱっと願いを叶えてあげる」という立場にはすぐにいたらない気がします。なぜなら、願いが叶ったあとのことは誰もわからない世界ですから、本当に自分が願いを叶えてあげられるかどうかもわからない、わけです。  この事件から、私がとても中途半端かつサラリとした感覚を覚えてしまうのは、「死にたい」という願いが、まるで自動販売機に硬貨を入れればすぐに希望の缶ジュースが出てくるような感覚で叶えられてしまうことにあると思います。同じように健康な若者には「生を授かる」ということも簡単になってしまっている。最初に戻りますが、「命の大切さ」がなぜ伝わらないのか。その理由は、自身の命を大切にされたことがないから。自身が唯一無二であることから遠ざかりたがっているから。に尽きると思います。唯一無二の存在であることを遠ざける、というのは、万人共通であるように思えている外に見える形だけを追い求めているから、と言えましょうか。  「自分のことが一番大切なのだから、他人もきっと同じように自身が大切。」と気づいた、という有名なお話が勝鬘経にあります。ここがポイントのような気がします。自分が一番大切と思えること、それが他の命の大切さへの共感へつながると気がします。

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