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2013年10月27日日曜日

不覚

 秋休み期間中ということもあり、引越しの準備の間、娘をドイツ人の義母に預けていました。
 
 ある日、二人でプールに行ったそうです。そこで、Wassergymnastikのコースが行われていて、娘は水に入らずに、講師の横でずっと真似をしていたそうです。笑える光景ですが、想像できます。その講師が、「どこから来たの?」と娘に聞いても、娘は「ん~」と考えたまま。「フランス?」「違う。」「アフリカ?」「違う」のやり取りの後、「日本!」と自慢気に答えたそうです。講師はびっくり顔のまま、笑ってそのままその質問は終了。Wassergymnastikも終了したところで、アフリカ系の女性二人がたまたまプールに入ってきて、講師が「あの人がママでしょ?」と娘に聞くと、首を横に振る娘。更にその横で、義母は一参加者から「あの子は日本人じゃないわよね?」と聞かれたそうです。
 
 私の娘はハイチからの養子です。ハイチはいわゆる「黒人」の島です。娘もいわゆる「黒人」です。義母は生粋のドイツ人。いわゆる「白人」です。ですから、当然の如く、いわゆる「黄色人種」の国である日本と「黒人」の娘が、そこにいる人々には全く結びつかなかったのです。
 
 娘はハイチとドイツの二重国籍です。もちろんドイツ国籍はあとからついてきたもの。ハイチ国籍では日本への入国は非常に面倒ですが、ドイツ国籍であればなんの障害もありません。また、特別養子縁組としての戸籍への記載もドイツ国籍であれば容易です。

 娘はこれら一切の人間の、大乗起信論で謂う所の「不覚」をまだ知りません。なぜ「日本!」と答えたらびっくりされるのか。なぜハイチのパスポートだけだと、日本のおじいちゃん、おばあちゃんに簡単に会いに行けないのか。

 この出来事は全て、人間の「見えるもの」とそこにつけられた「名前」或いは「様相」との結びつきが生み出したものですよね。この結びつきは、歳をとるほどに様々な色付けがされ、強固なものになっていきます。いわゆる「思い込み」とよばれるもので、まさに「不覚」の動きです。言語によって名づけされると、それらはそのとおり存在するものとして、確実な感覚を呼び起こします。

 さてさて。長くなりそうなので、このへんにしておきます。

 ちなみに、この「不覚」という言葉、実は仏教用語です。意外と日常使いなれている言葉に仏教用語はたくさんあります。「いただきます。」もそうです。おもしろいですよ。いつか「読む会」で特集してみます。

 

 

 




 

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