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2026年8月4日火曜日

明鏡止水 Der Geist ist klar wie ein Spiegel. Der Atem ist ruhig wie stilles Wasser.

Das ist ein Zen Zitat.

Yoga Asana ist wie das Polieren eines Spiegels. Während man poliert, bleibt man sich seines Atems bewusst. Dies entspricht *Samu* – der Praxis achtsamer Arbeit – im Zen.

2018年1月13日土曜日

大吉の新年w

 大変遅くなりましたが、新年おめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。平穏無事な一年となりますように。
 さてさて、私の方は術後の経過がとても良く、すでに自分が癌患者ということも忘れ去られつつあります…先日も書きましたが、自己の死を予感した時の謙虚さがどこへやら消えつつあります。悲しい哉、こんなもんですね人間は。これではいけないと、放射線治療で毎日の予定が制限されてしまう2月中旬までに、今年の勉強会予定をきちんと計画しようとおもいます。仏教経典を読む会、座禅会も引き続き行いますので、みなさまのご参加を心よりお待ちいたしております。
 私事ですが元旦より一時帰国していました。帰るつもりはなかったのですが、今年のヘッセン州の冬休みが長いこともあり、思い立ったが吉日で帰国を決めました。両親が高齢なこともあり、いつまで一緒に正月を過ごせるかわかりません。放射線治療が始まる前の息抜きも兼ねての帰国です。やっぱり日本はいいですね。仏教おばさんの私はやはり神社仏閣の、新年のいつもとは違う生き生きとした感じが好きです。屋台食が好きという一説もありますが…w
 ドイツへの帰国時に楽天イーグルスの某有名選手と偶然すれ違い、あまりの嬉しさで脳内が溶解しつつも、思い切って声をかけたところ、快く握手をして頂きました。なんでも自分の都合の良い方に考える私は、今年は大吉!!ということで、本日より中学硬式野球コーチ業にも復帰します。 
 今年は一層の勤勇精進あるのみ。
 よろしくお願いします。



 

2017年12月21日木曜日

飽和状態のマインドフルネスブーム

 飽和状態を超えたマインドフルネスブーム。最近は関連記事さえ全く読まなくなりました。そのほとんどが全く原義とは遠く離れたマインドフルネスを扱うものだからです。もともと、マンドフルネスという言葉が、耳に心地よく一人歩きをし始めた時点でその危険性はありました。以前にも取り上げましたが、お客様の多くが「マンドフルネス」のグループッセッション時はなんとなくいい感じがしたけれど、家に帰ってみると元の黙阿弥だったと言われます。それは何故か。なんども繰り返しますが、マインドフルネスはもともと仏教の八正道の教えの一つから発展したものです。八正道は読んで字のごとく、八つあり、そのうち一つでも欠けたら全く意味をなさないのです。
 現在のマインドフルネスは自己逃避型の、様々な手のこんだツールになってきました。「マインドフルネスであることで、生まれ変われる」的なものです。これは本末転倒です。「生まれ変わる、新しいものを手にいれる」は、今ある自分をある意味否定することです。否定した自分の上に何かを重ねた所で、なにかの拍子に否定した自分が下から持ち上がってくるでしょう。あるいは、常に上に重ねてゆくことで否定した自分を必死で隠してゆく。こんな堂々巡り、疲れませんか?

2017年12月14日木曜日

清貧の思想2 シンプルな生死

 以前「精神の思想」という本が昔あった。というようなブログを書いたことがありますが、命の限りという視点に立つと、これまたこの「清貧」という言葉が身近に迫ってきます。
 癌宣告を受けて私がまずはじめたこと。これが「不要な物質を捨てる」ということ。もともとあまり物をもたないほうですが、更なる断捨離を実行しています。自分が死んだ後に、夫に処理させるのは申し訳ない。それだけの理由です。
 「清貧」ということばは、物がなく貧しくても清々しい、という現代的な読み方では間違った理解につながります。私欲がなく清々しいということが本来の意味です。ここには余計な「貧しくても」という意味合いは含まれません。
 常に止観(サマタとヴィパッサーナ)の意識下で日常を送れるようになると、おそらく日常の雑事が不必要になってくるのでしょう。今日着る服、お茶を飲む器、週末に見る映画、来年の夏休み…なんてことはどうもよくなるというか、今ここに特に必要差し迫るものではなくなってゆくのだと思います。そうすると、自然とシンプルな暮らしになってゆく。
 人間の生死は究極的にはシンプルです。生まれて、そして死ぬ。しかし、これがなんとまあ難しく、ありえない現代社会に私たちは生きています。できるだけシンプルにさらっと人生を締めくくりたいものです。

2017年12月12日火曜日

癌宣告から今まで役に立っていること

 今更ですが、癌宣告をうけてから今日まで、一番役にたったことは普段からの坐禅の習慣。私の坐禅会のお客様の中には癌患者の方もいらっしゃいます。いつも「今、ここ」に集中する練習を一緒に続け、「すごく役に立っている」という言葉を聞くたびにとても嬉しい思いでいました。しかし今度は私が実際に身を持って体験する番となり、普段の信条がどれだけのものか試験することとなったわけです。
 その結果感想は一言、「坐禅を続けていて本当によかった。」恐怖や不安で自分が持って行かれそうなときも、いつも「今、ここ」にあることに集中することで死の恐怖はやわらぎます。癌を持っていようがいまいが、私はいづれ死ぬ。そのことを今考えても実際何もならない。体が動かなくなって、できなくて後悔するであろうことは、今から少しづつ処理するとして、それよりも目の前のことを100%やり遂げる。なんでも100%全力でやるんです、洗濯物をたたむことでさえ!もちろん子供と話すときは、まるで宇宙人がはじめて発する言葉を聞きのがすまい、かのように真剣に聞く、これが役に立ちます。w
まさに「今、ここ」の集中です。おすすめします。興味のある方一緒に練習しましょう!(広告になってしまいますが…w)
 しかし、癌宣告からはや1ヶ月が経つ今、あの時の恐怖感、そして生きることへのメチベーションの消え去ることのなんと早いこと…ここ数日はもうごく普通の生活をしています。そして時々、いかんいかん、あの時の感覚忘れるな、真剣に生きろ!と喝を入れています。
 

2017年12月8日金曜日

ドイツのVereinの大切な役割

 手術後、野球ができない分ブログを書く時間ができました。w あんなにサボっていたブログですが、今は書きたいことがたくさんあります。腕の痛みが許す限り、少しづつ書いていきます。
 老年学を大学院の一コマで学んでいた頃、「地域で老いる」ことの重要性を知りました。要するに病気だからといって、病院や施設に合わせて引っ越さなくてもよい状況です。それにはもちろん地域の相互支援のコミュニティの存在が必要不可欠となってきます。ドイツではこのコミュニティはまさにVerein(日本語で言えば友の会、結社、愛好会、クラブの意味)につきます。ドイツ人3人集まればVereinを作ると言われるくらい、星の数ほどありますが、最小単位は3人。大きなものになると万単位のVereinも存在します。
 私が所属するのは野球クラブ。日本に比べたらまだまだですが、最近はヘッセン州最大のクラブに成長しました。そこで私は中学硬式野球のコーチをしています。そのため、野球に夢中の子供たちはもちろん、その親御さんたちとも、野球に限らず普段から交流があります。それも中学生チームにとどまらず、幼稚部、成人部までのみんなとです。そしてそのほとんどが、野球場近辺の住人です。(http://www.redwings-baseball.com)
 その彼らに今回は本当に助けられました。手術は全国大会3位入賞のお祝いも兼ねたクリスマス会前日にあり、雰囲気を悪くしてしまうなという私の思いは無用でした。とにかくありとあらゆるメンバーに助けられました。私がいない間のチームのフォロー、娘の練習の送迎、医療関係の様々な情報、家事のヘルプ等々。そしてこのようなヘルプは野球チームに限らず、座禅会や勉強会に普段から参加していただいている方からも頂いています。皆さん、心から感謝申し上げます。幸せ者です。
 この地域における相互支援はこれからの老齢化社会に不可欠です。それも金銭を介さない互助。普段から趣味や興味でつながっている仲間ほど、心を許しあえる人間はいません。そんな人間が、家からわずかの距離にたくさんいると思うと本当に心強いです。
 

2017年12月5日火曜日

命の限りにマジで気付いた時

 わかっちゃいるけど、日頃身をもって実感しないこと、しようとしないこと、横に置いて置こうとすること。それはいつか自分は死ぬということ。癌宣告はそれを「はい、あんた、目冷ましなさいよ、もうすぐよ。」と、言われている感じがします。それが、まさに第3者である医者から指摘されると、一気に目が覚めます。「とうとう、私にも来たか。」という感じ。この感覚、そして恐怖と後悔と取引の念が押し寄せてくる。知ってはいたけれど、本当にその通りです。そして、身近な大切な人間とのつながりが全く違った視点で見えてくる。そんな感じです。この感覚、本当は癌宣告とか突然の死別とか、頭を殴られるようなショックを受ける前から、日頃忘れずに持つべきものなんでしょう。これがあれば、世界平和はとっても簡単なものなんだろうな。

2017年9月2日土曜日

今を生きろ!

 この半年、ブログを書く欲求が全くありませんでした。今年前半は色々な場面で個人情報操作やら監視やらのテーマを耳にすることがあり、こうやってブログを発信する意味を考えているうちに、なんだか書く気が失せてしまいました。ブラグに限らず、普段からほとんどSNSを利用しない私ですが、なくても困ることは何もない…というのが結論です。
 そうこした半年間に、仕事で色々な人との出会いがあり、座禅会や経典を読む会があり、イベントもあり、やっぱり書いた方がいいのかな、という気になっています。もしも、読んでくれている方がいればぜひ感想などお聞かせください。一緒に色々なことを考えていきましょう。

 8月、日本からの一時帰国からドイツに戻ってすぐに、末期癌だった女性が亡くなりました。彼女とは痛みと向き合う瞑想法や、坐禅、歩く禅行を一緒に丹念に繰り返していました。最後に彼女から話をしたいと連絡があったのが一時帰国の当日。ならば帰ったらすぐにということで、私は予約を入れそのまま日本に発ちました。その最後の予約が叶えられるままの最期でした。話を聞いてあげたかった。ただただ悔しいです。 
 30代半ばで、2歳の子供と別れなければならなかった彼女の気持ちは、察するに足りません。共通の友人達はいかに彼女が「自己の死」を受け入れられずにあがいているか、を語っていましたが、私はそうは思いません。彼女はとうにそれを受け入れていたのではないかと思うのです。キリスト教徒の彼女が火葬を望んでいたということは、その印のひとつに思えます。
 彼女が初めて私のところに来て話してくれたこと、「私がいなくなった後に、息子は私のことをどこまで覚えていてくれるだろうか。」
 とても難しい質問です。私は正直にわからないと答えました。けれど、坐禅の練習のように「今、ここ」にいつも集中して、100パーセント息子と常に向かい合うことは、間違いなく彼の心のどこかに残ると思う、と私の考えを伝えました。100パーセント一緒に朝ごはんを食べる。オレンジジュースひとつ、パンひとつを一緒に味わう。ママと呼ばれたら、100パーセント全身全霊で返事をする。100パーセント一緒に手をつなぐ。100パーセント一緒に買い物に行く。そんなことです。私が言う100パーセントとは、その瞬間に、未来や過去は入ってきませんし、考えも及びません。ただこの瞬間だけを完全に100パーセント受け入れるということです。子供を手をつないでいる時は、ただその手のぬくもりを感じ、子供が語りかける声に耳をすます、一緒に歩くことに集中する、そんなことです。洗濯物ひとつたたむ時も、100パーセントそれに集中する。化学療法も100パーセント受け入れ集中する… 彼女ははじめきょとんとしていましたが、1週間後会った時に、それが自分自身にとてもよい新しい感覚を与えてくれていて、一人でいる時もそうするようにしていると笑顔で話してくれたのが印象的でした。
 そんな彼女だからこそ、100パーセント病気と最期まで戦う姿を息子に見せようとしたのではないかと思うのです。諦めない母、最後までがんばる母の姿を…
 
 彼女の葬儀はごくごく身近な親族内だけで行われたようです。
 彼女の死から数日後、親族から喪中通知の手紙が届きました。封をあけてカードを取り出して一瞬息を呑みました。そこには満開のひまわりの写真。そしてその真ん中に「今を生きろ!」と一言。私の頭の中は一瞬空になり、次の瞬間なんともいえない優しい、暖かい思いでいっぱいになりました。彼女は最後の瞬間まで100パーセント生きたんだと、なぜか確信がもてたのです。カードを開くと美しい彼女の顔写真。優しい眼差しに微笑み返さずにはいられませんでした。
 ありがとうKさん。いつもあなたのことを側に感じています…

 

2016年10月18日火曜日

夫婦で家接心 3 Tage Intensive Meditation mit meinem Mann ; )

 ここ数ヶ月、仕事で一杯一杯のダンナがとうとう帯状疱疹を患ってしまいました。幸い、早期発見と薬の投与が効いて激痛はなし。毎日パソコンとにらめっこのダンナに私のイライラも限界に達しました。
 主人は普段、私が坐禅やマインドフルネス指導をしているにも関わらず、ダンナは一度として参加したことがありません。煙たがっているそぶりを見せる割には、私に来客があると、きちんとその時間帯は沈黙を守り、仕事に敬意を払ってくれています。半信半疑、怖いもの見たさ、新しいことへ尻込み、といった感じでした。そこで、先週末から秋休みに入ったのを待っていましたとばかりに、子供をおばあちゃんに預けて3日間の家接心を提案。「もう、あなたを救う道はこれしかない!」と、どこぞの新興宗教の勧誘並みの真剣さで訴えました。w すると、ダンナは意外にもすんなりとOK。ありゃりゃ、どんな反論が来るかと構えていたのが馬鹿馬鹿しくなりました。すんなり陥落するほど、ストレスでもうどうにもならなくなっていたというのが正解でしょう。
 まずは、心理学者、脳生理学者らの瞑想に関する学術報告ビデオを見せウォームアップ。そのあとは、通常の坐禅会参加者と同じように、テキストや口頭で坐禅とマインドフルネス瞑想について解説。そして開始です。
 1時間を1セッションとして、3日間で15セッションを計画しました。その間、森での1〜2.5時間かけた経行(歩く禅)を3回含みます。もちろん、食事中と質問以外は沈黙を保ちます。
 1回目のセッションは、ダンナは5分で挫折。坐禅中、足が痛くて動き始めたダンナは、隣で座っている私に恐る恐る近寄ります。私が起きているかどうかチェックのために、まずは目の前で手を振るダンナ。w 反応しない私の目が開いているかどうか、下から覗き込む。4、5秒考えた末に、とうとう私の肩をゆらして一言「ねえ、起きてる?」w。とうとう、私も反応することに決め、目をはっきりと開けました。「今寝てた?足が痛いんだけど。」あまりの朴訥な発言に笑いをこらえきれず大笑い。「今までいろんな人と一緒に座ってきたけど、肩を揺すられて助けを求められたのは、あんたが初めてだわ〜」と、こんな感じでどうなることやら…と始めまりました。
 しかし、笑える1回目が嘘のように、ダンナは毎回真剣に取り組んでくれました。足の痛みに耐えられず、椅子坐禅に2回ほど変えましたが、途中坐禅に関する記事を読むうちに「やっぱり、ちゃんと座れるようになった方がいいと思う。」と、自分から座布団に座るようになりました。そして、最後のセッション時には25分間きっちりと座れるようになっていました。
 毎回、素直にトライしてゆくダンナと一緒に、私ももちろん真剣に座りました。特に、慈悲の瞑想では、忙しいダンナに対してとげとげしい言葉を発したりイライラする自分を猛省。この家接心が私に取っても大きな収穫となったことは言うまでもありません…
 終了後、「よくがんばったよね、お疲れ様。」とお互いにねぎらい、ダンナからの一言、「これから毎日座ってみようかな…」ストレス軽減だけではなく、それに伴う家族不穏にも、坐禅やマインドフルネス瞑想が役立つことを再認識しました。
 

2016年2月2日火曜日

言葉が素通り

 今日は鈴木俊隆のエッセイを読みながら二人のお母さん方(ドイツ人と日本人)と坐禅会がはじまりました。テーマは「子供とコミュニケーション」。ここ最近、よかれと思って言っているだけど、結局余計な言葉が混じって子供を怒っていたり、或いはどうせ右から左に聞き流していることを知りつつ同じ調子でこれまた叱っていたり。そんなことが続きました。参加者のお二人もまさに実際に経験していること。これはまさに、言葉が素通りしているのです。もう、怒ろうが叱ろうが言葉が子供の心に命中しない。だから、何度も同じことの繰り返し。あーあ、だんだんむなしくなってきます。今日はこれをテーマに坐りながら、客観的な事態の把握を試みました。
 そして気がついたこと。全くもって「今、ここ」にない心で子供に話しかけていました。過去のことをただ思い出して怒ったり、未来にまだ起こっていない悪いことへの忠告だったり。更に、あってはいけないことですが、「相手に話す」ということに集中していませんでした。例えば、茶碗を洗いながら叱っていたり、ご飯を食べながらぶつぶつ注意したり。
 二つのことを「心から」集中してできる人間はほとんどいないでしょう。何かをしながら相手に大切なことは伝わりません。手を止め、相手の目を見て話す。そして、相手の声を聞く。こんな単純なことをすっかり忘れていました。「今、ここ」に集中する。坐禅で練習していることをそのまま活かせばよいのですよね。反省。
 

2016年1月13日水曜日

Etwas fehlt nach dem Achtsamkeitskurs...2 坐禅だけでは欠けること2

(eine Folge von Getern...)(昨日の続き…)

Der 8fache Edle Pfad war die erste Predigt von Buddha und bestehen aus 8 richtige Praxis, um Leiden zu erlöschen. Die Inhalt ist ;

八正道はブッダの初説法で説かれたもので、苦を滅する為の八つの実践項目からなります。その内容は;

1.正見 Vollkommene Erkenntnis : Das Akzeptieren des Gesetz von Ursache und Wirkung 全ては縁って起こるということを正しく見ること。要するに四諦を正しく見ることです。
2.正思 Vollkommene Gesinnung : Die Entsagung, keine Bedürfnisse zu hegen, nicht habgierig zu sein, und keine Tat zu vollbringen, durch die jemand geschädigt werden kann.
3.正語 Vollkommene Rede
4.正業 Vollkommene Verhalten
5.正命 Vollkommene Lebensunterhalt
6.正精進 Vollkommene Anstrengung
7.正念 Vollkommene Achtsamkeit (Mindfulness) 
8.正定 Vollkommene Konzentration (Meditation)

Alle Leiden entstehen aus irgend Aktionen mit Körper, Mund und Geist. Das ist wahr. Deshalb versuchen wir diese 3 Aktionen „vollkommen“ lassen, um „persönliche Sachen“ zu verbessern.

全ての苦は身体、口、そして意思の何らかの活動によって起こります。これはまぎれもない事実です。ゆえに、これら3つの活動を「正しく」することで、「私的なもの」を改善しようとするのです。

Wir merken hier schon, dass „Achtsamkeit“ und „Konzentration“ nun von Teile von 8 Pfad sind. Nur mit beiden können wir nicht „persönliche Sachen“ verbessern. Wir müssen andere 6 Pfad ausserhalb dem Meditation Raum beschäftigen ; ) Und so können wir uns endlich dem „gesunde ICH“ nähern.

ここですでに気づかれた方もいると思いますが、「マインドフルネス」と「禅定(精神を統一すること)」は八正道の中の二つに過ぎないのです。これら二つだけでは決して「私的なもの」を改善することはできません。結局、他の6つも坐禅室の外で一生懸命がんばらないといけないのです。こうしてやっと「健康な私」に近づくことができます。

Also, was ich seit gestern sagen wollte ist, dass wir nach dem MBSR oder Achtsamkeitskurs selbst viel beschäftigen müssen.
Dafür lernen und quatschen wir hier bei mir zusammen. Ich und alle Teilnehmer sind gleich „guten Weisen“ ; ) —-> Was ist „guten Weisen“ ? bitte schau die erste Seite von meiner Homepage an. www.zenzai53.com

私が昨日言いたかったことは、MBSRにせよマインドフルネス講座にせよ、その後自発的にがんばる必要があるということです。
その為に、ここzenzai53の坐禅室で皆さんと一緒に勉強したり、ワイワイガヤガヤしています。私も参加者の方も、結局皆「善知識」なので…「善知識」とはなんぞやと思われた方はどうぞホームページをご覧ください。http://www.zenzai53.com/home

2016年1月12日火曜日

Etwas fehlt nach dem Achtsamkeitskurs...1 坐禅だけでは欠けること1

Heute schreibe ich endlich Mal in Deutsch! Einige Leute haben berichteten, dass der google Übersetzer leider nicht gut funktioniert. Tja, Japanisch ist echt schwierig zu übersetzten. Wir verwenden fast kein "Hoch" Japanisch, die man in der Sprachschule lernen... Und Computer Programm, inkl. meiner Siri, kann natürlich nur Hoch Japanisch merken. Es ist aber gut so, dass Computer nicht alles wie Menschen arbeiten können ;)

今日は久しぶりにドイツ語で書こうと思います。何人かの方からグーグル翻訳機能がとんでもない翻訳してるよ、との報告を受けました。日本語の翻訳プログラムはほとんどあてになりません。私たち日本人は、語学学校で習うようないわゆる「標準語」を普段使いませんからね。Siriを含めてwコンピューターはこのきちっとした標準語しかもちろん認識しません。けれど、コンピューターが人間のように働けないところがいいんですよね。

heute will ich über die ganzheitliche Meditation schreiben. so ein grosses Thema muss ich eigentlich als ein Lebenswerk überlegen. Aber wegen dem Boom von Meditation will ich schon meine Meinung hier bisschen äußern.

今日は、坐禅(或いは瞑想)全体について書きます。恐らく一生かけても答えが出ない、難しいテーマです。けれど、昨今のブームに思うことが多々あり、少し意見を述べようと思います。

Bei mir gibt es paar regelmässige Meditation Teilnehmer, die schon Mal den MBSR oder den Achtsamkeitskurs besucht haben. Die meisten Leuten finden sehr gut den Kurs. Und viele erzählen gleichzeitig, dass dort irgendetwas fehlt...

私のところで坐禅をしてゆく方の中に、MBSRの8週間のコースやその他のマインドフルネス瞑想コースに参加経験のある方が多くいます。彼らのほとんどがそれらのコースをポジティブに受け止めています。そして同時に、「なんか足りないんだよね」という感想も持っています。

Dort fehlt "persönliche Sachen". ich schreibe hier die Zusammenfassung, was ich von den Teilnehmer gehört habe -> -> Beim Gruppen Kurs lernen wir die allgemeine Methode zu meditieren und hören die Anweisungen, die von Dharma basiert ist. (Dharma ist die wahre Lehre, die Weisheit, das Natur Gesetz.) Wir versuchen die Sachen "objektiv" betrachten. Wir lernen auch "ichlosigkeit". Wir wollten eigentlich "persönliche Sachen" verbessern, deshalb haben wir den Kurs teilgenommen. Aber alles klingt wie "Nihilismus"! Müssen wir einfach alle "persönliche Sachen" vernichten ????? Nein, nein. Der Lehrer meint nicht so. wir wissen es... Aber trotzdem, was und wie sollen wir zu Hause, im Büro, in der Schule, mit meiner Familie oder Freunden KONKRET anfangen ????........ so erzählen viele.

その「なんか」というのは「私的なもの」だそうです。彼らの言う事をここにちょっとまとまてみます。→ グループコースではいわゆる瞑想の方法や、それらに関する仏法を基にした心得を学ぶんだよね。そんでもって、いろいろな事象を「客観的」にみたり、いわゆる「無我」とはなんやらとかを学ぶわけ。私は「私的なもの」を改善したいからコースに参加したんだけど、何だか結局ニヒリズムにしか聞こえないのよ。「私的なもの」は結局忘失しろってことなのって思っちゃうわけ! けど講師が言っていることはそういうことじゃないってのはわかってるの。わかってるんだけど、家や会社や学校や、家族や友達に対して、じゃあどうやって具体的に対処すればいいわけ?……。ということを多くの方がおっしゃっています。

"Objektiv" die Sachen zu betrachten oder "ichlosigkeit" zu erleben sind schon wichtig. Aber bevor wir solche Sachen zu erlangen möchten, müssen wir "gesunde ICH" finden. Hier meine ich nicht körperlich. "gesunde ICH" ist immer offen für verschiedene Leuten, Situationen und sogar alte Erlebnis. "gesunde ICH" kann bereit von solche Sachen immer etwas neues entdecken. "gesunde ICH" hat sogar den Mut, um angenehme und abhängige Sicht zu verlassen. Aber dann, wie können wir "gesunde ICH" sein?

「客観的に」に事象を認識することや、「無我」とは何ぞやを「なんとなく」経験することは悪いことではありませんし、むしろ大切といえるでしょう。けれど、それらを達成することばかりを追うだけでは、いわゆる「健康な私」は見つけることができません。これは身体的なことを言っているのではありません。「健康な私」はどんな人間、状況、そして過去の経験に対してもオープンです。「健康な私」はそれどころか、そこから更なる新しい発見をすることにも躊躇しません。また、「健康な私」は偏り切ったものの見方と決別する勇気があります。とはいえ、そんな「健康な私」はどうやったら見つかるのでしょうか。

Ohne "ICH" können wir zuerst keine Idee bekommen, dass wir meditieren wollen. Und nach der Meditation kehren wir immer wieder zurück zu "ICH". Diese "ICH" könnte besser "gesund" sein, dass wir nächste Meditation statt mit Zwangsdenken sondern mit Freude auftreten können. Wenn wir immer weiter mit "gesunde ICH" meditieren, können wir irgendwann unsere "persönliche Sachen" objektiv betrachten, sogar davon "ichlosigkeit" erleben. Und endlich können wir verstehen, dass "gesunde ICH" und "ichlosigkeit" eigentlich eine Einheit ist...

「私」がなければ、まず坐禅を組もうなどという考えは起こりません。そして坐禅の後には、いつもの「私」にまた帰ってゆきます。この「私」が嫌々次の坐禅に臨むのではなく、嬉々として参加できるように「健康」であることに越したことはありまん。このように私たちが「健康な私」として毎回坐禅するならば、いつか「私的なもの」を客観的に認識し、さらに「無我」まで体験できるかもしれません。そして終には、「健康な私」と「無我」が実はひとつだったということを認識する可能性まであるのです…

Also, was bauchen wir denn für "gesunde ICH" ? Die Antwort ist der 8fache Edle Pfad ! klar, natürlich. Das ist der Unterschied zwischen buddhistische Meditation und alle andere Meditations.

それじゃあ、「健康な私」には何が必要なのか?答えはもちろん八正道です!そしてこれが、仏教瞑想と他の瞑想法との大きな違いでもあります。

ich habe heute sehr Muhe gegeben alles in Deutsch zu schreiben :) Danke, dass ihr bis am Ende gelesen habt. Über den 8fache Pfad erkläre ich morgen... ;)

最後まで読んでくれてありがとうございます。続きの八正道については明日取り上げます。

2016年1月2日土曜日

新年おめでとうございます。frohes neues Jahr !

 新年おめでとうございます。今年も爆竹とロケット花火の煙にまみれて、友人たちとともに新年を迎えました。新年を迎えた気が今年もしません。w 元旦は主人と娘と3人で初座禅。数回に分けての70分近い座禅でしたが、娘が経行をふくめ、全回座り切ったのには敬意を示さずにはいれません。娘にしてみれば久々の座禅でもあったので、あっぱれです。先日の映画館でも同じようにじっとしていてくれたら、もっと映画を楽しめたのに!などとはもちろん愚痴りません…w 娘に反して主人は座禅を敬遠しています。しかし、元旦にかぎっては、東洋文化に敬意を示し(!?)初の長時間参禅。足が痛い痛いといいつつも、結局座り抜きました。お見事です。二人ともおつきあいありがとうございました。よい一年にしましょうね。

2015年12月29日火曜日

森で経行 Gehmeditation im Wald

 娘が近くに住む妹弟の家に泊まりに行っている間、ここぞとばかりに森に2時間ほど経行に行きました。クリスマスの慌ただしさと比べて、森の中はまるで別世界。1時間も歩くと、ただただ、「今、ここ」に集中することに慣れてきます。しかし、その慣れから離れてしまう速さといったら悲しい哉、まさに光速です… 森の写真と、もうひとつの写真は座禅会常連参加者の女性から頂いた木の星です。丸太から彼女がのこぎりでくり抜いたそうで、感謝感激。

2015年12月11日金曜日

意地悪な隣人と再会したその時…Mindfulness Meditation bringt endlich was : )

かれこれ1年近く定期的に一緒に座禅を組んでいる女性Aさんのこと。先日クリスマスマーケットで、過去にAさんをねちねちといじめ続けた隣人を遠くから発見したそうです。その瞬間、鼓動が激しくなり息がつまり、嫌な思い出が次々と浮かんできたとのこと。けれど、立ちつくしながらも、以前のようなパニックにはならずにどこか冷静でいられたと、座禅室に入るなり嬉しそうに話し始めました。それじゃあ、それは今日のよいテーマだねということで、その瞬間を客観的に見て行くことにしました。会った瞬間にどんな体の反応があったのか、息を飲んだ、足がすくんだ、手をぎゅっと握った、頭の中が白くなったと思ったら胸が熱くなった、などなど。そして頭の中で起こるフル回転の思考回路の順を追っていきます。さらに、そこから自分がどうしたかったのか、何を恐れていたのか、など、第三者的に見ていきました。最後には彼女は自分自身で子供の頃の追体験をしているのだということに気づき、更に、子供の頃受けた親から自分への過度の期待にも気づき、最後には「彼女のいじめも問題だけど、私が親からの体験を彼女に映し出して怖がっているのが一番の原因だわ。」と、話していました。さらに「すごいわー、1年前の私とは全然違うと思うわない?体の中にゆるぎない芯を感じるわ。とっても嬉しい。」と笑顔で自分を褒めていました。  彼女との1年間の座禅体験は、いわゆる禅仏教の座禅とは違い、どちらかというとマインドフルネスといわれる認知療法に近いものでした。とにかく語って、聴いて、座禅して、お茶をのんでの繰り返しが、こうやって実を結んでゆくのを目にできて私もとても嬉しかったです。

2015年11月22日日曜日

死について考えろ!?

 ドイツ人の知人が某キリスト教団体主催の、禅瞑想(ドイツ語直訳)に参加したそうです。好奇心旺盛で勉強家の彼はすかさず私に聞いてきました。「座禅している間、目はとじなきゃいけないのか?」「そこの禅の先生は、いつも死のことを考えろって怖いくらい脅すんだけど、それが禅仏教なのか?」さすがに二つめの質問には苦笑してしまいました。  私は座禅会参加者の方には、なるべく目を開けているように伝えています。なぜ座禅するのか?答えは明らかで、よりよく生きる為です。この「生きる」の中には、もちろん死も含まれています。そして、日常生活の大半は目を開けて過ごしています。目を閉じた状態でだけよりより状態にもっていけても、普段の生活には何の役にもたちません。また、目を閉じると妄想がかえってたくさん湧いてきやすくなります。そのまま眠り込むことも簡単です… 逆に、一部のヨーガ瞑想のような、なにかと一体化を目指す場合には目を閉じた方が入りやすいでしょう。  「死について考えろ!」と怖い顔で脅されながら目を閉じて座禅を組んだら、妄想の嵐で心音が一気に速くなりそうです。w 死に至る過程を考えるのか、その瞬間を考えるのか、死後のことを考えるのか…一口に死について考えろといわれたら、多くの人はこのようなことを思い浮かべるのではないでしょうか。死を考えることは同時に生を考えることにつながるはずです。そこを忘れて、死の恐怖に立ち向かう方法だけを思案することになってしまっては、おかしな信仰に繋がりかねません。また、死を考えることが中心になるあまり、今ここ、に生きていることが疎かになるのはおかしな話です。生死双方への意識バランスがとれたところに初めて「よりよく生きる」意味が見いだせると思うのです。

2015年11月1日日曜日

瞑想ブーム

 先日の一時帰国時のフライトの中で、なんと2本もの坐禅や瞑想に関するドキュメントフィルムを見ました。そのうちの1本は、実際に学生、主婦、サラリーマンなど様々な生活スタイルを送る人間が摂心や瞑想セミナーに参加する様子を追ったもので、とても興味深かったです。もちろん、様々な瞑想法があるわけで、マインドフルネス、坐禅、MBSR、シュタイナー法、キリスト教的方法等、どれもその特徴を簡明に伝えていました。そのドキュメント中に現れる指導者達はみな似たような雰囲気を持ち合わせています。穏やかな雰囲気をもち、ゆっくり話す。私とは正反対でした。笑  しかし、これも西欧における「瞑想」というものに対する一イメージの表れではないかと思います。瞑想するからといって、みな穏やかで、何にも動じない人間になるわけではありません。また、それが第一目的ではないと思うのです。不要な怒りや不安とうまく付き合うことができるようになることで、落ち着いた生活ができることは間違いありません。しかし、毎日の生活の中での喜怒哀楽への「人間らしい」反応はそのまま存在するし、それでいいと思うのです。坐禅によって、いま、ここ、に気づき、自利利他の精神が向上すれば、それらの反応が一方通行にはなりません。まさに中道です。  続きはまたこの次に…

2015年10月27日火曜日

3人の禅僧  3 Zen Mönche

 今回の一時帰国中の目的は、仕事に向き合う姿勢のリセットです。滞在中、3人の禅僧のお話を間近に聞くことができました。うち二人は曹洞宗の禅僧の方々です。その著書や、珍しい経歴で日本では有名なお二人です。彼らの一般向けの対談会で、楽しくお話を聞かせていただきました。彼らも、坐禅中に起こる思考の流れについて色々と試行錯誤しつつ座り込んでいるのだなあ、と思いました。しかし終には、言葉で持って言葉を遣る、ということでしょうか。彼らの対談本も拝見しました。現在の瞑想ブームについて、少々辛口で書かれている部分もありますが、それも納得がゆくところです。しかし、ヴィパッサナーやヨーガから日常生活へのポジティヴな変化を体験し、よりよく生きていくことができるのなら、それも方便として私は良いと思います。ただし、そこに執着し、それが生活の足かせになってしまっては本末転倒ですが。若い女性たちのヨガブームも、ヨガが義務となってしまったら意味がないですからね。仕事帰りに週二日は必ずヨガに行くことが、他のことへのストレスを生み出していたり…  そして、3人目は不二般若道場の山本老師です。震災直後、実家にすぐ帰るのが怖く、ここで1週間の摂心を受けてから仙台に向かいました。1週間坐禅しっぱなしの後の私の心は、なぜか晴れ晴れしていました。あの時の、余計なものが最小限まで落ちきってクリアに考えたり見ることができた感覚が今でも忘れられません。そして、老師の冬の晴天のようなカラッとした人柄がとても印象に残っていました。あれから4年。久しぶりに訪れた道場では、私のことを覚えてくださっていた参禅者のみなさんがいて、とても嬉しかったです。そして老師のカラッとした人柄もそのままでした。不謹慎ですが、世界一おいしい精進料理もそのままでした… 今回はわずか4日間の摂心です。時差ぼけで、帰国後まる2日間はほとんど眠れず、体もむくんで、生まれて初めて足を組み続けることがつらかったです。けれど、それでも続けるといつの間にかそれも一つの身体の流れる変化として気にならなくなってゆきます。今回は、山本老師はもちろんのこと、参禅者の先輩方のお話がとても心に残るものが多く、仕事の方向性を少し見失っていた私への良い刺激となりました。私も日々精進していこうと思います。

2015年9月22日火曜日

曇りのない心で

 「座禅やっても何も感じないんだよね」「座禅やってもなんか変わらないんだよね」これ、よく聞く言葉です。前者はスポーツをよくやっている人、以前何かの中毒だった人から。後者は、ちょっとうつ状態の人からよく聞く言葉です。座禅に不思議はおこりません。宇宙から体全身にエネルギーが舞い降りてくるわけでもないし、突然光がさして昨日と違う私になるわけでもありません。外に外に「今とは違う自分」を求めても、そこに評価を下す根本が同じであれば、常に不満足で終わってしまうでしょう。だったら、いつも同じ評価を下さずにはいられない、自分の思考のクセを変える方がてっとりばやく変化を感じることができるかもしれません。とはいえ、これが対人関係への評価となると難しいです。例えば夫婦喧嘩をしたときとか!笑 「大乗起信論」に説かれている五つの鏡のような曇りのない心で事象を映せることを目指したいものです…

2015年9月15日火曜日

経行 Gehmeditation

 先日、1時間ほど集中して経行をしました。それもカタツムリの赤ちゃんの速さで。裸足で2呼吸につき一歩。まさにスローモーションの世界ですが、これほど自分の足の裏の構造が手に取るように「見えた」のははじめてでした。おまけに自分の足の裏がこんなに柔らかく感じたのも生まれてはじめてで、いつの間にか1時間が過ぎていました。今更ですが、人間って自分の体のことを知っていそうで、実は全然知らないかも…と実感しました。